【 概 要 】−北条時子は鎌倉幕府初代執権北条時政の娘で源頼朝の正室北条政子の実妹とされる人物です。治承5年(1181)、初代鎌倉幕府将軍となった頼朝の命により、源氏の一族である足利義兼(足利氏2代当主)と結婚し義氏(足利家3代当主)、野田朝氏(熱田大宮司)室、瑠璃王、薬寿御前をもうけています。伝承によると建久7年(1196)、北条時子は義兼が鎌倉出府の際、花見に出かけ侍女(又は側室とも)である藤野が井戸から汲んで来た生水を飲んだところ、次第に腹が大きくなり妊婦のような姿になりました。
鎌倉から帰った義兼がその姿を見ると不信に思い、さらに藤野が足利忠綱(藤姓足利氏の嫡流)と不義密通したとの虚偽の報告をした為、疑惑は深まりました。忠綱に問いただすと明確な答えが得られず、逆に追い詰められた事で足利北部の山まで逃亡し自刃、降り積もった雪が忠綱の血によって真っ赤に染まった事から赤雪山(標高:621m)と呼ばれるようになったそうです。
北条時子の方に問い詰めると無実の罪を着せられた事に憤慨し「死後わが身体をあらためよ」と言って自害して果てました。死体を改めると時子の腹からは無数の蛭が出てきた事から無実が証明され、義兼は大変悔い、藤野を極刑にして原因となった井戸を埋め戻したと伝えられています。
義兼は氏寺である鑁阿寺(足利市)の境内に蛭子堂(智願寺殿御霊屋)を設け、息子である義氏は母親の菩提を弔う為、寺院を造営し時子の戒名「智願院殿」に因み智願院法玄寺と名付け篤く供養しました。昭和初期に法玄寺(足利市)の境内から発見された五輪塔(蛭子塚:お蛭子さま)は鎌倉時代に製作されたものと推定された事から、北条時子の墓碑とされ信仰の対象となっています。法玄寺境内にある伝:北条時子姫五輪塔は足利市指定文化財に指定されています。
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