壬生家・鳥居家:概要

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概要・歴史・観光・見所
壬生家・鳥居家(壬生城)

【 壬生家 】−壬生家は垂仁天皇の皇子の後裔である小槻家から出た小槻胤業が下野国に下向した際、壬生の地に土着し地名に因み壬生氏を称したのが始まりとされます(諸説有り)。胤業の跡を継いだ綱重は宇都宮家の家臣となり壬生城を居城として勢力を拡大させました。綱房の代には有力家臣の1人となり、永正9年(1512)の宇都宮家と家臣芳賀家との権力争いである「宇都宮錯乱」では主家である宇都宮忠綱を支え、芳賀興綱を追い落としています。

天文18年(1549)には宇都宮城を奪取しますが、弘治元年(1555)に綱房が急死すると綱雄が跡を継ぎましたが壬生家の弱体化は避けられず弘治3年(1557)には宇都宮城を奪還されています。この頃になると宇都宮家から独立を図る綱雄と、従属を主張する叔父である周長との対立が激化し綱雄は暗殺、周長が壬生家の当主となります。

しかし、綱雄の子供である義雄が壬生城に立て籠もりさらなる対立が続き周長が討死した事で義雄が当主になります。義雄は父親の意思を継ぎ宇都宮家からの独立を画策し小田原北条氏に与しました。天正18年(1590)の小田原の役では小田原城に立て籠もり豊臣軍と対立、敗戦後、義雄が病死し嫡男もいなかった事から壬生家は断絶しています。

【 鳥居家 】−鳥居家は紀伊国熊野権現の神職の後裔とされ、平安時代末期には当時の当主行範は平清盛に仕え平姓を賜り、承久の乱以降に三河国矢作庄に下向し松平家に仕えるようになりました。特に鳥居元忠は幼少の頃から竹千代(後の徳川家康)の側近として仕え、数多くの戦にも従軍し功を挙げ、天正18年(1590)の家康関東移封の際には下総国矢作領4万石を与えられています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは兵1800人を率いて伏見城に立て籠もり、西軍数万の兵を釘付けにし壮絶な討死だったとされます。伏見城は落城しましたが、東軍の士気は高まり勝利に大きく貢献しました。跡を継いだ忠政は父親の功などがあり陸奥磐城平10万石で移封になり平藩を立藩、さらに元和8年(1622)に山形藩22万石(高直しにより24万石)に加増されました。

寛永13年(1636)、2代忠恒が跡継ぎがいないまま死去した事で鳥居家は断絶、改易となりましたが元忠の功績が評価され忠恒の異母弟である忠春が高遠藩(現在の長野県伊那市)3万石で鳥居家を再興させています。元禄2年(1689)2代忠則は家臣を統率出来なかった事から閉門となり、その最中に死去、鳥居家は改易となりましたが、またしても元忠の功績が評価され嫡男忠英に能登下村藩(現在の石川県七尾市田鶴浜町)1万石が与えられています。

元禄8年(1695)、鳥居忠英は水口藩(現在の滋賀県甲賀市)2万石で移封、さらに寺社奉行や若年寄など幕政の要職を歴任し正徳2年(1712)に壬生藩3万石で加増移封となりました。以後、壬生藩は鳥居家が8代にわたり藩主を歴任し明治維新を迎えています。

【 常楽寺 】常楽寺(壬生町)は壬生家、鳥居家の菩提寺で寛正3年(1462)、壬生胤業が一州正伊禅師を招いて創建されました。寺号は胤業の戒名「常楽寺殿亀雲道鑑」に因み常楽寺と名付けられました。

壬生城:写真
壬生城 壬生城 壬生城 壬生城
常楽寺:写真
常楽寺山門から見た参道の石畳みと六地蔵 常楽寺本殿正面と石燈篭と天水桶 常楽寺境内に建立された鳥居家累代の墓 常楽寺境内に建立された壬生家歴代の墓



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