【 概 要 】−大久保家は下野国の宇都宮家の一族である武茂氏からの分流で武茂泰藤の代に三河国に移り、その後裔の忠茂又は忠俊が大久保氏を名乗り松平家に従ったとされます。烏山大久保家の祖となる常春は留守居、側衆などを歴任した大久保忠高の次男として生まれ、側衆、若年寄、老中など幕府の要職を歴任し享保10年(1725)に烏山藩2万石で入封し、享保13年(1728)には1万石が加増され3万石になっています。
忠高は藩政の基礎を築きますが、元々肥沃な土地柄でなかった事や天災なども重なり度々藩政改革が行われ、4代藩主忠喜の代には倹約令や荒地改めなど、5代藩主忠成の代には農村支配の強化、結婚奨励政策など、6代藩主忠保の代には報徳仕法(二宮尊徳が考案した農村改革)などが行われましたが大きな好転は得られず領内も荒廃しました。
8代藩主忠順が最後の藩主で明治2年(1869)に知藩事、明治4年(1871)に烏山県知事となっています。太平寺(大田原市)は烏山大久保家の領内菩提寺として中興された天台宗の寺院で境内の位牌堂には大久保家累代位牌が安置され、蛇姫様のモデルと云われる2代藩主大久保忠胤の4女於志賀姫の墓が建立されています。又、江戸菩提寺である教学院には初代、2代、3代、5代の墓所が建立されていますがその他の藩主の墓は不詳との事。
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