伊王野城(霞ケ城)

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概要・歴史・観光・見所
伊王野城(霞ケ城)概要: 伊王野城は室町時代の長享元年(1487)に当時の領主である伊王野資清によって築かれた城郭で、これまで居城として利用した伊王野氏居館を排して、当城に本拠を移し、当地に境内を構えていた正福寺を旧居館跡に移動させました。伊王野城の周りには三蔵川、奈良川、根岸川が流れる事から天然の堀に見立てる事が出来、伊王野谷と芦野谷の分岐点という交通上、軍事上の要衝地でもありました。山頂付近に本丸を設け、二の丸、三の丸、坊の郭、遠見の郭など複数の郭が配されていました。室町時代になると那須家は一族同士が争うようになり、伊王野氏も防衛力の高い居城が必要になったと思われます。那須家には「那須七騎」と呼ばれる一門衆がいましたが、時代が下がると、那須七騎の大田原氏が台頭するようになり、特に大田原資清は謀反を企てたり、実子を同じく那須七騎の福原氏、大関氏に送り込み実権を握り、那須本家と鮮明に対立しました。伊王野氏は那須家一門衆の分断は、周辺の大大名である宇都宮氏や佐竹氏からの干渉を受ける口実になる為、それを避けるように尽力しています。

戦国時代の伊王野氏の石高は大凡、1万3千〜1万7千石とされ、那須本家に次ぐ石高でしたが、天正18年(1590)の小田原合戦の際、大田原家、福原家、大関家が豊臣家と逸早く好を通じているのを嫌い、豊臣方の参陣に躊躇、伊王野氏は説得に奔走したものの叶わず、自らも遅参となっています。那須家は改易となり、伊王野氏の改易は免れたものの石高が738石と大幅に減じられています。当時の伊王野城の様子は判りませんが、伊王野城の規模からいっても738石の一介の武士が維持出来るとは考えずらく屋敷の一部のみが使われたものと思われます(伊王野氏が関ケ原の戦いで動員した兵力が100名前後とすると、当時1万石で250名動員したと考えられる為、実石は4千石程度はあったのかも知れません)。その後は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に出兵し武功を挙げたものの加増されるでもなく鬱積が積もっていたところ、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは東軍方に与し、単独で関山に布陣する西軍の上杉勢を撃破する功績を挙げ、2千石の加増を受け大身旗本として復権しています。

伊王野氏は城持格の大名ではなかった事から、城の一角に陣屋を設けていたと推察されますが、寛永4年(1627)に当時の当主伊王野資友が旧居館跡に陣屋を移し、伊王野城は名実共に廃城となっています。現在も伊王野城の跡地には土塁や空堀、堀切、郭の形状などの遺構が明瞭に残されている事から那須町指定史跡に指定されています。又、城跡一帯はケヤキの大木をはじめ、古木、巨木が多く自生し名称「伊王野城の樹林」として栃木県指定天然記念物に指定され自然公園として整備されています。麓には伊王野氏の菩提寺である長源寺が境内を構え、一角に設けられた「伊王野氏新墳墓」は那須町指定史跡に指定されています。

伊王野城の跡地の一角に設けられている馬頭観音堂は奥州平泉(岩手県平泉町)を出立し、鎌倉にいる兄である源義経の元を馳せ参じようとした源義経が愛馬の太夫黒の足の傷を治したとの伝説が残されています。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(伊王野城山公園)
・ 現地案内板-那須町教育委員会

伊王野城:写真

伊王野城(霞ケ城)
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