会津中街道(松川通り)

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概要・歴史・観光・見所
会津中街道概要: 会津中街道は天和3年(1683)に発生した日光大地震により会津西街道(下野街道)が通行止めになり、元禄8年(1695)に会津藩3代藩主松平正容によって開削されました。会津西街道は会津藩にとって参勤交代に利用したり江戸への廻米などを運ぶ主要街道の1つであった為、会津中街道それに変わる街道として重要視され、奥州街道の氏家宿から三斗小屋宿、大峠(標高1468m)を経て会津城下へ至る行程で18の宿場が設けられました。名称の由来は会津西街道と、会津東街道(原街道)の間にある事に起因し、その他に街道の中間に松川宿があった為、「松川通り」、「南山松川通新道」、「松川新道」などとも呼ばれました。享保8年(1723)に日光大地震の土砂で出来上がった五十里湖が決壊すると大きな被害をもたらしましたが、会津西街道のルートが再び姿を現します。元禄9年(1724)には時の藩主保科正容の参勤交代に利用されますが、基本的に白河街道が参勤交代の経路として確立した為、参勤交代としては松平正容が3回と他の藩主が1回の合計4回に留まり会津西街道が再整備されと会津中街道の重要性がしだい薄れていきます。それでも会津西街道に比べると、江戸までは7里(約28キロ)も距離が短く物資の輸送や旅人の経路として引き続き利用されました。明治時代以降、近代的な交通網が整備されると会津中街道の峠道などは廃道となった為、重要性が失われ急速に衰退しました。

白湯山と会津中街道: 特に白湯山は信仰の山として信者が多く、参拝者は必然的に会津中街道を利用しました。白湯山は寛文12年(1672)に板室の住民五郎左衛門が山中で偶然仏菩薩の出現に合い、その事を修験僧だった宗海に話し、今度は2人で山に入ると紫雲が棚引く霊地で再び仏菩薩が出現した事から霊場として整備し白湯山権現を祀る御堂を建立し「白湯山」と名付けたのが始まりとされます。街道沿いには拝所が設けられ、登拝の起点となった三斗小屋宿には鳥居や石灯籠、石碑など数多くの石造物が建立され、江戸時代後期の最盛期には1日に千人前後の登拝者がいたとされます。明治初頭に発令された神仏分離令と修験廃止令により急速に衰退しましたが、戦後までは信仰が続き、現在でも上記の石造物の名残が随所に残されています。

戊辰戦争と会津中街道: 戊辰戦争時には軍事的に利用され会津藩と新政府軍との激戦地となり板室宿や三斗小屋宿では大きな被害を受けています。慶長4年(1868)4月20日、会津藩は板室宿に陣を設け大田原城(栃木県大田原市)襲撃の為に出陣しましたが、塩野崎の戦いで敗れ板室宿まで撤退しました。4月22日、薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩で構成する新政府軍が板室宿を急襲し大きな戦闘となり、結果、会津軍は三斗小屋宿まで退き、新政府軍も一端大田原城に引き上げました。5月2日、新政府軍の主力が白河戦線に移った間隙を突いて、会津軍は大田原城を急襲し、ここでは会津軍が勝利を収めています。その後、新政府軍は会津中街道から会津領への侵攻が決定され、館林藩と黒羽藩が主力となり会津藩との激戦が繰り広げられました。敗れた会津軍は会津西街道の田島宿まで撤退、後を追った新政府軍は三斗小屋宿を焼き討ちし全戸が焼失したと伝えられています。

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