西明寺(益子町)概要: 獨鈷山西明寺は栃木県芳賀郡益子町大字益子に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。西明寺は奈良時代の天平9年(737)に高僧として知られた行基菩薩が当地に巡錫で訪れた際、自ら十一面観音像を彫刻すると大旦那となった紀有麻呂が一宇を設けて本尊として祭ったのが始まりと伝えられています。紀有麻呂がどの様な人物かは判りませんが、中世、長く当地を支配し西明寺を庇護した益子氏は大納言紀長谷雄、又は征東大将軍紀古佐美、又は土佐守紀貫之を遠祖とする氏族である事から、由緒を制作する際に益子氏関係者が開山に関わった事にしたのかも知れません。
その後、天平宝字元年(757)に唐僧恵林によって境内が整備され、さらに真言宗の開祖である弘法大師空海が入山し当寺の基礎が固まると寺運が隆盛し延暦元年(782)には境内に48の堂宇が建ち並び12坊を擁する大寺院となりました。平安時代後期の康平年間(1058〜1065年)に益子氏の初代となる益子正隆(紀貞隆の次男)が高舘城(西明寺城)を築くと、城郭は西明寺の境内を取り込んだ事から、以後、歴代益子氏が篤く庇護するようになりました。
中世に入ると益子氏は宇都宮城(栃木県宇都宮市)の城主である宇都宮家に従うようになった事から、西明寺は宇都宮家からも庇護を受けるようになり、承元3年(1209)には宇都宮景房により本堂が改修され、建長7年(1249)には鎌倉幕府5代執権北條時頼が境内の堂宇を再建し、時頼の戒名「最明寺道崇」に因み寺号を益子寺から西明寺に改めています。
南北朝時代、益子氏は主家である宇都宮家と共に南朝方として行動し、居城である高舘城は関城・真壁城・大宝城・伊佐城・中郡城と共に南朝方の関東六城の1つに数えられ拠点として機能しました。その為、北朝方から攻撃目標の1つに目され、正平6年(1351)に侵攻を受け落城、西明寺もその兵火により焼失しています。応永元年(1394)に益子勝直が再興を果たし、明応元年(1492)には楼門、天文7年(1538)には益子家宗の寄進により三重塔が造営されています。戦国時代になると益子氏は宇都宮家からの独立を画策したものの宇都宮勢に敗れ、さらに、天正11年(1583)に敵対関係にあった笠間氏に敗れた事で大名家としては没落し、一族は常陸国の大名である佐竹氏を頼り8家が家臣として仕えています。西明寺は庇護者を失いますが、江戸時代に入ると幕府から庇護を受け、朱印地を認められています。
西明寺の境内には茅葺屋根の楼門(国重要文化財)や三重塔(国指定重要文化財)、本堂(栃木県指定有形文化財)、鐘楼(栃木県指定有形文化財)、閻魔堂(益子町指定文化財)、弘法大師堂(益子町指定文化財)、庫裏など歴史的建築物(御堂建築)が多く貴重な事から昭和50年(1975)に栃木県指定史跡に指定されています。坂東三十三観音霊場第20番札所(札所本尊:十一面観世音菩薩・御詠歌:西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ)。下野三十三観音霊場第13番札所。下野七福神(布袋尊)。山号:独鈷山。院号:善門院。宗派:真言宗豊山派。本尊:十一面観世音菩薩。
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