殺生石(那須温泉)概要: 平安時代、九尾の狐が絶世の美女に化け中国やインドで悪行を重ね、日本に来た際には玉藻前という女性に姿を変え宮中の女官として鳥羽上皇に仕えました。上皇は美貌が美しかった事から玉藻前を寵愛しましたが、病床につく事が多くなり朝廷の政治も不安定になりました。不信に思った陰陽師阿部泰成は玉藻前の正体を見破ると上総介広常と三浦介義純の両名に命じて追討させ、この地まで追い込みました。しかし、九尾の狐の霊力は衰えることがなく数万の兵力を持ってしても討ち取れず、何度も犬追物で弓術の特訓を繰り返しようやく討ち取る事が出来ました。九尾の狐は巨大な石に姿を変えましたが、数百年の間怨みは消えず、毒気を吐き続け周辺住民や家畜に害を及ぼした事から何時しか「殺生石」と呼ばれ誰1人として近づく人はいなくなりました。
室町時代に入った至徳2年(1385)、示現寺(福島県喜多方市)を開山した源翁和尚が当地に遣わされ一心に方術を唱えると九尾の狐の怨念が晴れようやく毒気も少なくなったとされます。一説には源翁和尚が殺生石を打ち砕いた際、殺生石は3つに別れ美作国高田、越後国高田、安芸国高田(又は豊後国高田)に飛び散ちったと伝えられ、現在でも岡山県真庭市勝山(美作国高田)にある化生寺には飛散した殺生石が残され信仰の対象になっています。元禄2年(1689)4月18日には松尾芭蕉も奥の細道行脚際、殺生石を見学し「 石の香や 夏草赤く 露あつし 」の句を残し曾良旅日記には「 石の毒気いまだ滅びず、蝶蜘蛛のたぐひ真砂の色の見えぬ程にかさなり死す。 」と書き残しています。殺生石は昭和28年(1953)に史跡(栃木県指定史跡)に指定されています。
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