黒羽城(別名:九鶴城)概要: 黒羽城は天正4年(1576)に当時の領主大関高増(美作守)が白旗城から居城を移したことが始まりとされます。大関氏は当地域を支配していた那須家の従属していましたが、天正18年(1590)の小田原の役に際し、主家には従わず小田原に参陣した事で豊臣政権から高増が1万石、晴増(高増の嫡男)は3千石が安堵され独立した大名として認められました。慶長5年(1600)の関が原の合戦では東軍に組し、会津若松城(福島県会津若松市)を領する上杉景勝討伐の拠点として重要視され徳川家の援助により城郭の拡充や改修が行われました(常陸の佐竹氏も動向が未知数だった為、その押さえとしても重要視されました)。
関が原の合戦後は戦功により2万石(大関高増の死後、嫡男大関晴増が1万8千石、2男大関増栄が1千石、3男大関増公が1千石)に加増され黒羽藩を立藩、明治維新まで代々大関氏が藩主を勤めます。明治維新後の明治4年(1871)、黒羽藩が廃藩になると廃城となり多くの建物が破却、払い下げとなりました(大関氏は江戸時代を通して城主・城主格では無かった為、幕府からは陣屋として処理されていました。その為、天守閣はもちろん高層櫓なども設けられませんでしたが縄張りとしては関が原の戦い前後に拡張整備された当時の城郭が維持されています)。
黒羽城の縄張り: 黒羽城は複郭居館型の山城で松葉川と那珂川と囲われた天然の要害として防御的に優れ規模としても栃木県北部最大の城郭とされました。城域は南北約1.5km、東西約0.25km、面積約37.5haに及び頂上(比高約70〜90m)に設けられた本丸を中心に北側に二ノ丸、南側に三ノ丸がありそれぞれが深い空堀(最大で深さ15m、幅20m)と高い土塁(最大で高さ4m、幅5m)で囲われ、要所は馬出しや2重の空掘が設置されました。特に本丸の大手筋には枡形門が2重に設置され厳重な出入り口となっています。
又、大関氏の菩提寺である大雄寺や縁のある帰一寺や新善光寺といった主要寺院や鎮守社である八幡宮なども城郭内に取り入れました。黒羽城は、風水的にも優れており、北方を守護する玄武(高山)には黒羽城の城域の延長上にある丘陵の最高峰、東方を守護する青龍(流水)には前田川、南方を守護する朱雀(湖沼)には窪地に位置する阿久津村、西方を守護する白虎(大道)には石井沢村に通じる街道を見立てて四神相応の地としました。さらに、北東の鬼門鎮守として温泉神社(大田原市黒羽町大字中野内:大宮、高尾温泉明神、高尾神社・祭神:大己貴命 少彦名命)を見立て社領50石を安堵し那須郡の総社として庇護しています。黒羽城は現在でも空掘りや水堀、土塁などの遺構が良く残り平成13年(2001)に黒羽町(現大田原市)指定史跡となっています。
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