那須神社

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概要・歴史・観光・見所
那須神社(大田原市)概要: 那須神社は栃木県大田原市南金丸に鎮座してる神社です。那須神社(大田原市)石畳みと石燈篭と石造神橋那須神社の創建は仁徳年間(313〜399年)、当時の下野国造であった奈良別命が下野国の国家鎮護の為、御神体である金瓊を埋め石祠を建立したのが始まりとされます。奈良別命は第10代崇神天皇皇子である豊城入彦命の4代、又は6代後裔とされ、資料的な価値が疑問視されている「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると「仁徳朝の御世に、元は1つだった毛野を上毛野と下毛野に分割した。豊城命の四世孫の奈良別を初めて国造に定められた。」とあります。嵯峨天皇の勅命により弘仁6年(815)に編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」によると、左京皇別の大網公の上毛野朝臣同祖として「豊城入彦命六世孫下毛君奈良弟真若君之後也」とあり、左京皇別の吉弥侯部の上毛野朝臣同祖として「豊城入彦命六世孫奈良君之後也」とあります。

奈良別命が実在するとなると4世紀の人物という事になりますが、考古資料などからは上毛野と下毛野が分離したのは5世紀末から6世紀初頭とする説が有力とされる為、矛盾する事になります。ただし、4世紀には東北地方南部にも大型の前方後円墳が見られる事から当地方が全くの空白域や、蝦夷の支配地域だった訳でもなく、古代の官道である東山道とも大きく離れていない場所に位置している事から何らかな宗教施設として設けられた可能性も否定出来ません。

一方、現在の那須地方一帯が那須国造の支配領域とすれば、当社は那須国造と関係が深い神社という事になり、六国史や延喜式神名帳にも記載されていない事から当初は有力な神社では無かったとも言えます。延暦年間(782〜806年)には坂上田村麿が東夷東征の際、この地を訪れ戦勝祈願として宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の分霊(応神天皇)を勧請し以後、金丸八幡宮と呼ばれました。源義家も奥州東征(後三年合戦)の戦勝祈願で金丸八幡宮を参拝し見事勝利した事から神意に感謝し、家臣である須藤貞信(那須家の祖)に命じ、社殿の造営や参道の整備を行い社領50石を寄進しています(参道にある桜はこの時植樹されたものと伝えられています)。

その後、当地を長期にわたり統治した那須家の崇敬社となり、源平合戦の元暦2年(1185)に行われた屋島の戦いの際、那須与一が平氏方の軍船に掲げられた扇の的を弓を射る瞬間に「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現宇都宮那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え・・・」と心の中で祈願した、八幡大菩薩とは金丸八幡宮の事とも云われています。与一が見事扇に弓を命中させ源平合戦に勝利した事は金丸八幡宮の御加護として文治3年(1187)土佐杉で社殿の再建し自らの太刀を奉納しています。

平家物語で那須与一の台詞の「南無八幡菩薩」は当社の事とされ、与一が奉納したという平安時代末期、銘成高の太刀(栃木県指定重要文化財)を所有している事から平安時代には既に成立していた可能性がありますが、平家物語は軍記物語の為に細部の台詞などには脚色も多く、そもそも「南無八幡菩薩」が当社という確証もありません。又、太刀も後年奉納された可能性も捨てきれない事も事実です。

一方、文和4年(1355)に当社に奉納された銅製鰐口には「文和ニニ季乙未八月十五日敬白」と「那須庄福原南金丸八幡宮大旦那藤原忠彷并江州」の銘がある事から、那須神社の旧社号である「金丸八幡宮」と奉納した年号、大旦那として寄進した人物名(藤原忠彷并江州は那須家の一族と推定されています)が明確となっています。

戦国時代に那須家は小田原北条家に与し為、豊臣秀吉が北条家を滅ぼすと一時改易となり、金丸八幡宮(那須神社)も庇護者を失い衰微しましたがその後周辺を支配した那須家一族の大関氏の崇敬社となり天正5年(1577)には大関高増(美作守)により社殿が再建され銅製鰐口などが奉納されています。

江戸時代に入ると大関氏は黒羽藩(藩庁:黒羽城)を立藩し引き続き庇護し、例祭の際は藩主自ら参拝に訪れ、奉納される舞などを観賞したと伝えられています。古くから神仏習合していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治6年(1873)に社号を「那須神社」に改めています。祭神:応神天皇。配神:たかおかみのか神、別雷命、大己貴命、少彦名命、稲倉魂命、須佐之男命、火産霊神、武甕槌命。

現在の那須神社本殿は寛永19年(1642)に大関高増(土佐守)が再建した当時のもので、三間社流造、銅瓦棒葺、向拝付、棟梁は高宮次右衛門、高宮市兵衛、江戸時代初期に建てられた数少ない神社本殿建築の遺構として貴重なことか平成26年(2014)に国指定重要文化財に指定されています。拝殿は木造平屋建て、寄棟、鉄板瓦棒葺き、平入、桁行5間、張間2間、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り。

那須神社楼門(随身門)も本殿と同時期に建てられたもので(昭和50年代に楼門が解体修理が行われた際、下層一手先巻斗と二重頭貫墨書から寛永19年と記した墨書が発見されてる事から寛永19年:1642年、又は翌年に竣工したと推定されています)、入母屋、銅板葺、三間一戸、那須神社(大田原市)の神社山門には随身が祭られています桁行3間、張間2間、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、木部朱塗り(上層部壁面に龍の絵画)、彫刻部極彩色、上層部高欄付、正面中央には「八幡宮」の扁額、格天井(格毎に団扇、軍配、龍、天女、植物等の彩色絵画)、両脇には長床(身分が高い人物が那須神社を参拝に訪れた際、お供の人の控えの間)、下層部の両側には随神(神仏分離令以前は仁王像)が安置されています。那須神社楼門は江戸時代初期に建てられた楼門建築の遺構で意匠的にも優れている事から平成26年(2014)に国指定有形文化財に指定されています。又、元禄2年(1689)には松尾芭蕉が"奥の細道"行脚の折参拝に訪れた縁の地でもあり、平成26年(2014)に「おくのほそ道風景地」として国指定名勝に指定されています。

那須神社の文化財
・ 銅製鰐口-文和22年(1355),径37.2p,那須家寄進-栃木県指定文化財
・ 銅製鰐口-天正5年(1577)、径54.6p、大関家寄進-栃木県指定文化財
・ 太刀-平安時代末期、刃長81.8p、庵棟鎬造-栃木県指定重要文化財
・ 太刀-鎌倉時代、長さ83.0p、反り3.6p-栃木県指定重要文化財
・ 那須神社本殿-寛永19年-三間社流造、銅瓦棒葺-国指定重要文化財
・ 那須神社楼門-寛永19年-三間一戸,八脚楼門,入母屋-国指定重要文化財
・ 甲冑(紺糸威)-江戸時代-大関増勤奉納-大田原市指定有形文化財
・ 石灯籠-寛永19年-芦野石製,高さ2.9m-国指定重要文化財
・ 手水舟-寛永19年-高さ77p,幅157p,奥行90p-国指定重要文化財
・ 永代々神楽(10座)-例祭:3月15日-大田原市指定無形民俗文化財
・ 獅子舞-例祭:9月15日,大関氏が観賞-大田原市指定無形民俗文化財

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-大田原市教育委員会
・ 現地案内板-大田原市

那須神社:本殿・楼門・写真

那須神社参道に設けられた石造神橋と随身門(楼門)
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那須神社参道に設けらた石鳥居と杉並木 那須神社石鳥居と石燈篭 那須神社随身門(神社山門)から見た境内 那須神社随身門に付属している長床
那須神社参道石畳みから見た拝殿正面と石燈篭 那須神社本殿と透塀 那須神社社殿(拝殿・本殿)全景左前方 那須神社境内に設けられた石燈篭


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