大関増栄:概要

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概要・歴史・観光・見所
大関増栄(大雄寺)

【 概 要 】−大関増栄は寛永16年(1639)、黒羽藩3代藩主大関高増と分部光信娘との子供として生まれました。正保3年(1646)、高増が死去すると兄である増親が2代藩主に就任、その際、黒羽藩2万石から増栄に1千石、弟である増君に1千石が分知され1万石8千石となっています。増栄は交代寄合として幕府に仕えていましたが、寛文2年(1662)に増親が死去すると末期養子が認められ江戸幕府4代将軍徳川家綱を御目見した事で黒羽藩5代藩主に就任しています。承応3年(1654)には居城である黒羽城の本丸が造営されています。

大関増栄は黒羽藩領にある社寺に対しては篤く保護し、延宝6年(1678)には那須湯本温泉神社に筥(那須町指定文化財)を寄進、貞享元年(1684)には大関家の菩提寺である大雄寺に東皐心越作の紙本墨画達磨図(縦135.0cm、横45.7cm:大田原市指定文化財)を寄進、寛文8年(1688)には大宮温泉神社を現在地に遷座し社殿を造営、寛文9年(1669)に「子孫繁昌」や「武運長久」を祈願し石燈篭(高さ約285cm、竿直径約40cm、2基:大田原市指定文化財)を寄進しています。

大関増栄は寛文11年(1671)に大坂加番、その後は江戸城各門番や公家下向の馳走役などを歴任しています。貞享5年(1688)江戸藩邸にて死去。享年50年。戒名:本源院殿心印元証大居士。

黒羽山久遠院大雄寺:写真
大関増栄と縁がある大雄寺 大関増栄と縁がある大雄寺 大関増栄と縁がある大雄寺 大関増栄と縁がある大雄寺
黒羽城:写真
大関増栄と縁がある黒羽城 大関増栄と縁がある黒羽城 大関増栄と縁がある黒羽城 大関増栄と縁がある黒羽城
那須湯本温泉神社:写真
大関増栄と縁がある那須温泉神社参道石畳みから見た石鳥居 大関増栄と縁がある那須温泉神社参道の石段と玉垣 大関増栄と縁がある那須温泉神社境内から見た拝殿正面と石燈篭 大関増栄と縁がある那須温泉神社境内に生えるミズナラの大木



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