犬伏宿

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犬伏宿:略データ
・場 所・栃木県佐野市犬伏(下町・新町・堀米町)
・概 要・犬伏の地が何時頃集落として発生したのかは判りませんが、古代から既に犬伏という地名があったとされます。

伝承によると、当地には大猿が巣食い度々村を襲っては大きな被害を齎した為、毎年1人の娘を生贄にしたところ不思議と大猿は静になったそうです。

しかし、年々、年頃の女性が少なくなり困り果てると近江国から「ちょっぺ太郎」と呼ばれる霊犬を呼び寄せ、娘の代わりに生贄に出すと、大猿と霊犬との激しい戦いとなり両者とも息絶えました。

村人達は「ちょっぺ太郎」を感謝し手厚く埋葬すると篤く供養した事からその地を犬伏と呼ばれるようになったと伝えられています。

又、別の伝承によると当地の守り神だった八幡神社には豊作を祈願する為に毎年、若い娘を生贄として奉納していましたが、ある年、霊験ある山伏が出現し、娘の代わりに霊犬を奉納し祈願したところ、翌朝、霊犬は息絶えたものの、その後は娘を生贄を出さずとも豊作が続いた事から、村人は霊犬に感謝し犬伏と呼ばれるようになったと伝えられています。

ただし、似たような伝説、伝承は日本各地で見られる為、真偽の程はよく判っていないようです。

一方、6世紀中葉には全長47m、高さ5m、前方後円墳である米山古墳(栃木県史跡)が築造されている事から、その頃には有力豪族の拠点として多くの人々が生活を営んでいた可能性があります。

中世に入ると唐沢山城の城主佐野氏の支配下に入り永禄11年には佐野昌綱が家臣の津布久昌成の菩提を弔う為に天王山昌綱院大庵寺を開創しています。

交通の要衝だったようで、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは、会津征伐の為に犬伏まで進軍し宿営した際に上方で石田三成の挙兵の報を聞いた真田親子が犬伏の薬師堂で話し合いを行い真田昌幸と幸村は陣を払い上田に引き上げています。

一方、少し遅れて徳川秀忠が大庵寺に入り、ここでい会津征伐の中止と、西国転進の報を聞いた為、秀忠隊も犬伏から引き上げています。

江戸時代に入ると引き続き佐野藩(藩庁:佐野城)に属しましたが、佐野藩の廃藩に伴い慶長19年に天領、元和2年に小山藩領、元和5年に宇都宮藩領、元和8年に天領、寛永10年からは彦根藩領に移行しています。

江戸時代初期に日光例幣使街道が開削されると宿駅に指定され、宿場町として整備されました。

天保14年に編纂された日光例幣使街道宿村大概によると本陣2軒、問屋2軒、旅籠44軒、家屋728軒、人口2757人、町並みは21町23間だったと記されています。

本陣は下町と荒(新)町に1軒ずつ、問屋は下町と堀米町に1軒ずつ、旅籠の44軒は日光例幣使街道の宿場町では最大で飯盛り女も認められていた事から大いに賑わったとされます。

日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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