金崎宿

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金崎宿:略データ
・場 所・栃木県栃木市西方町金崎
・概 要・江戸時代初期に慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝から離反し東軍に転じた藤田能登守重信が下野西方領1万5千石を与えられ西方藩を立藩、当地は西方藩領に属しました。

領内の整備が行われると重信は家臣である鮎田播磨之助に命じ、柴村から民家50軒を遷し、さらに木の宮30石を加えて金崎村を成立させています。

重信は大坂の陣に従軍したものの、元和元年、又は元和2年に改易となり西方藩も廃藩となっています。

正保3年に3代将軍徳川家光の要請により持明院基定が臨時の奉幣使として日光東照宮に奉幣し、翌年から毎年奉幣使が遣わされるようになり、日光例幣使街道が開削されると宿駅に指定され、宿場町として整備されました。

天保14年に編纂された日光例幣使道宿村大概帳によると、当時の金崎宿は本陣1軒、問屋1軒、旅籠12軒(大5軒・中2軒・小5軒)、家屋86軒、人口380人、宿場の規模は5町30間でした。

本陣は代々古澤家が歴任し、往時は式台付の玄関や上段の間を備える等格式の高い屋敷を構え、現在も表門と土塀が残されています。

金崎宿の鎮守である愛宕神社は慶長12年に藤田能登守重信が金崎村を立村した際、村の乾(北西)の方角の守護神として家臣の鮎田播磨之助に命じて火防に御利益がある愛宕大権現の御霊を勧請し慶長18年に開創した神社です。

本殿は江戸時代初期に徳川家光が日光東照宮の大造営した際、金崎宿を利用した大工や彫物師が制作したものと伝わるもので、当時としては最高峰の技術がふんだんに見られ貴重な事から栃木市指定文化財に指定されています。

古くから神仏習合し、別当寺院だった千手院が祭祀を司っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により分離独立しています。

現在も街道沿いには古民家が点在し往時の繁栄が偲ぶ事が出来ます。

日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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