伊王野氏居館(那須町)概要: 伊王野氏居館は鎌倉時代の延応元年(1239)、那須氏4代当主那須頼資(宇都宮朝綱の子で那須氏3代当主・那須資之の養子)の次男である次郎資長が伊王野の地に配された際に築いたのが始まりとされます。次郎資長は地名に因み伊王野姓に改め、歴代当主は居館として利用しました。室町時代の長享元年(1487)、より防御性の富む伊王野城(背後の小山を利用した山城)に遷ると、居館の方は利用されなくなっています。伊王野氏は長く土豪として当地域を支配してきましたが天正18年(1590)の小田原の役の際に参陣が遅れた為、豊臣秀吉からは本領安堵と言われたものの、千石に満たない大身武士程度に没落しました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際、東軍として西軍の主力である会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)の城主上杉景勝の南下を押さえる為に尽力した功により2千石が加増され大身旗本に出世しました。伊王野氏は1万石には満たなかった為、城郭が持てず、寛永4年(1627)に当時の当主資友が旧居館跡に陣屋を設けて領内を采配しました。しかし、寛永10年(1633)、当時の当主である資房は、跡継ぎがなく死没した為、伊王野氏は取り潰しとなり、陣屋も破却されたと思われます。
その後、陣屋の跡には正福寺が境内を構えた為、周囲の土塁や堀などの遺構が維持されていましたが、昭和に入り伊王野小学校の拡張工事に伴い境内を移した為、旧観が大きく損なわれてしまいました。伊王野氏居館の跡地は現在、僅かに北側の土塁が残されているだけですが、歴史的に貴重な事から昭和35年(1960)に那須町指定史跡に指定されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-那須町教育委員会
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