亀岡八幡宮(益子町)概要: 亀岡八幡宮は栃木県芳賀郡益子町小宅に鎮座している神社です。平安時代後期に奥州で俘囚長の安倍氏が朝廷に対して反抗的な態度をとった為、討伐軍が派遣されました(俘囚や蝦夷側から見ると朝廷軍は侵略者)。その中の武将の一人源義家が当地の館まで進軍してきた際、源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)の分霊を勧請し戦勝祈願をしたところ霊亀が出現し吉兆の前兆と思われる不思議な体験をしました。
結果、見事念願成就し安倍氏との闘いに勝利を収める事が出来ると義家は神意に感謝し、凱旋で当地を再び訪れた際に社殿を造営し、康平7年(1064)には勅命により亀岡八幡宮の号を賜り、芳賀・塩谷両郡の惣社、後冷泉天皇の勅願所として広大な社領が寄進されました。文治5年(1189)に奥州藤原氏の征伐である奥州合戦の際には当地まで進軍した源頼朝がやはり戦勝祈願を行い、奥州平定を完遂した事から建久3年(1192)に社殿の改築を行い、建久8年(1197)に現在地に遷座しています。
亀岡八幡宮は歴代領主から崇敬庇護され社運を隆盛しましたが、文禄4年(1595)に宇都宮城(栃木県宇都宮市)の城主蒲生飛騨守に社領を取り上げられ一時衰微しましたが(蒲生秀行が宇都宮城の城主になったのは慶長3年:1598年なので由緒の年号は間違ってる可能性があります)、慶長5年(1600)に会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)の上杉景勝討伐で、小山(栃木県小山市)まで進軍してきた徳川家康から社領の寄進が行われました。
江戸時代には徳川将軍家から庇護され、慶安2年(1649)に3代将軍徳川家光から朱印地14石、除地7石が認められています。幕末の戊辰戦争の際には新政府軍の戦勝祈願が行われ、神仏分離令を経て郷社に列しています。
現在の亀岡八幡宮本殿は明治14年(1881)に造営されたもので三間社神明造、銅板葺き、外壁は真壁造り素木板張り、拝殿は入母屋、銅板葺き、平入、桁行6間、梁間4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り素木板張り。境内は創建時に霊亀が出現した事に因み、数多くの亀の石像が奉納されてます。祭神:譽田別命。配神:息長足姫命、玉依姫神。
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