益子町: 宇都宮家累代の墓

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概要・歴史・観光・見所
宇都宮家累代の墓(益子町)概要: 宇都宮家は石山寺(滋賀県大津市石山寺)、又は大谷寺(栃木県宇都宮市大谷町)の座主を勤めた藤原宗円が祖とされ、平安時代後期に奥州で発生した俘囚長安倍氏の反乱である前九年の役の際、源頼義・義家父子の戦勝祈願を行い、見事勝利に導いた事から二荒山神社(栃木県宇都宮市)の座主に就任しています。3代宇都宮朝綱は源頼朝に近い存在で源平の合戦の際は各地に従軍し、文治5年(1189)の奥州合戦でも大功を挙げ有力御家人としての地位を確立しています。しかし、建久5年(1194)に百町の公田を横領した事で土佐国国府(高知県南国市)へ配流、建久7年(1196)に許され下野国に戻ると家督を頼綱に譲渡し大羽に建久3年(1193)に創建した尾羽寺(後の地蔵院)に入りし自らも「尾羽入道寂心」を名乗り隠棲しました。大羽の地には配流先の土佐国に鎮座し篤く信仰した賀茂神社の分霊を勧請して綱神社(栃木県芳賀郡益子町上大羽)を創建し、初代宗円、2代宗綱の墓域や浄土庭園など整備しています。以後、当地は宇都宮家の聖地として篤く庇護され、墓域は墓家老を設けて家臣を常駐させ、周辺には南竜坊や海音坊、西念坊、周隣坊、定光寺など数多くの坊社が軒を連ね、鶴亀の池の畔には源頼朝が寄進したとされる多宝塔が建立されるなど大きく繁栄しました。

宇都宮家はその後、宇都宮城を拠点とする戦国大名として発展し長く当地を支配しましたが、慶長2年(1597)に22代宇都宮国綱と豊臣家の間に何らかな齟齬があり突如改易となっています。宇都宮家は大名家としては没落したものの、跡を継いだ義綱は寛永年間(1624〜1645年)に水戸藩に召し抱えられ高家格百人扶持、1千石となり宇都宮家累代の墓の保護を続けました。又、宇都宮家の家臣団が当地に移り住み聖地の管理を現在に到るまで続けた事から、多くの大名墓が朽ちる中、今尚その姿を留めています。墓域は東西約80m、南北約40m、五輪塔は初代宗円から33代正綱まで30余基、昭和42年(1967)に栃木県指定史跡に指定されています。

宇都宮家累代の墓:写真

宇都宮家累代の墓
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