日光例幣使街道: 八木宿〜今市宿

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概要・歴史・観光・見所

日光例幣使街道概要: 日光例幣使街道は徳川家康の死後、家康の御霊は遺言日光例幣使街道により日光東照宮で祀られる事になった為、幕府からの要請により朝廷から幣帛を奉献するための勅使が通る為に開削された街道です。例幣使とは、元々朝廷が伊勢神宮(三重県伊勢市)の神嘗祭に幣帛を奉納するために遣わされた勅使の事でしたが、幕府は家康を東照大権現という天照大神(伊勢神宮の祭神、天皇家の祖神)に準じる格の高い神として位置付け、朝廷から幣帛を奉納させる事で、徳川家や幕府の威信を高める政治的な色合いの濃い政策として行われました。朝廷側から見ると屈辱的な行為でしたが時代が下がると、勅使に任命された公家にとっては行楽の一環として捉えられ、さらに、公家自ら京都で仕入れた珍しい品々を各宿場で高値で取引した為、予想以上の収入を得る公家もいたそうです。

さらに、日光東照宮に金幣を奉じると、昨年の金幣を持ち帰り、それを細かく裁断して御守りを製作し大名家や旗本に事実上売り捌いた(形式上は初穂料)為、高額の収入を得ました。又、例幣使の費用として山城国相楽郡から年貢として330石余りが与えられていましたが、干した干飯を菊紋を記した包装紙で包み宿代として各宿場に納めた事で、大幅に経費を削減させ、差額分を懐に入れたそうです。

東照宮の例祭である旧暦4月16日にあわせて京都を4月1日に出立し中山道と日光例幣使街道を通過して15日間の行程で日光に到着。持参した金の幣束を奉納し返りは日光街道から江戸に出て東海道を通り京都に戻るといった一連の行為を正保3年(1646)から慶応3年(1867)まで221年間続けられ1回の中止もなく継続されました。

例幣使の一行は概ね30〜40人程で随員にも心遣いが支払われ、さらに脅し、タカリを行う人もいたようです。

日光例幣使街道は一般的に中山道を利用し倉賀野宿(群馬県高崎市)から日光東照宮のある鉢石宿(栃木県日光市)まで13宿を指し、楡木宿からは日光西街道(壬生通り)と重複し、今市宿からは日光街道と会津西街道と合流しました。

天明宿は日光例幣使街道の宿場町であると共に、佐野藩の藩庁が置かれた佐野城城下町でもあり、佐野氏縁の朝日森天満宮や家康の御霊が日光東照宮に勧請された際に1泊した佐野厄除け大師(惣宗寺)が境内を構えました。

鹿沼宿は同じく家康の御霊が4日間滞在した薬王寺や押原六十六郷の総鎮守である今宮神社が境内を構える宿場町で、本陣は代々鈴木家が歴任し儒学者の鈴木石橋を輩出しています。

街道は例幣使だけでなく、西国大名が日光東照宮に参拝の際にも利用され各宿場町は繁栄しその後、幕府の道中奉行扱いとなり五街道並に昇格しています。現在でも日光周辺には杉並木が残っていて国指定特別史跡、国指定特別天然記念物に指定され、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されています。

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日光例幣使街道の宿場町

【 今市宿 】-今市宿は日光例幣使道と日光街道、会津西街道、大田原道(日光北街道)が交差する交通の要衝でした。江戸時代初期までは徳川家の御殿が設けられ、将軍家が日光東照宮に参拝する際には宿所として利用されました。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が日光街道と日光例幣使街道の追分に建立された地蔵堂に安置されていた地蔵尊に掛けられていた白幕を外させています。

江戸時代末期の戊辰戦争の際には会津西街道が会津領に通じていた為、今市宿が激戦地となりました。旧幕府軍は宇都宮城栃木県宇都宮市)が落城すると一端会津領に引き上げ、体制を整えてから会津西街道の今市口に陣を張った新政府軍に攻撃を仕掛けますが連携が悪く大きな戦果を挙げる事なく撤退、新政府軍を率いた板垣退助は頑強な陣地を構築しました。

その後再び旧幕府軍が攻勢を仕掛けましたが敗北を喫しています。

【 楡木宿 】-楡木宿で日光西街道(壬生通り)は日光例幣使街道と合流し、追分には「右中仙道、左江戸道」の道標が設置されていました。江戸時代は天領や旗本などが支配していました。

鎮守は楡木神社で磐裂命、根裂命、日本武命、武内宿禰命が祀られていました。

江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒、戸数128軒、人口511人となっています。

【 嘉右衛門町 】-栃木市嘉右衛門町は戦国時代末期に岡田嘉右衛門の尽力により開村し、開発者の名前に因み嘉右衛門新田村と呼ばれるようになったのが発生の起源となっています。

元和2年(1616)、江戸幕府初代将軍徳川家康が死去し、翌年、日光(栃木県日光市)に遷座すると、家康の命日に行われた日光東照宮の例祭に合わせて朝廷から幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が遣わされ、その通行に利用される日光例幣使道が開削されると、街道沿いの集落として多くの旅人や商人が往来するようになりました。

さらに、物流経済の発展に伴い巴波川舟運が盛んになり、舟運の拠点として整備されました。江戸時代中期以降になると多くの商家が出店するようになり経済的にも発展し江戸時代後期から明治時代初期にかけては北関東有数の商業都市とまで言われる程に賑わいました。

又、旗本である畠山家の陣屋が設置された事で領内の行政的な中心でもありました。現在でも日光例幣使道沿いには良質の町屋建築(栃木県)や土蔵建築が建ち並び往時の町並みを維持している事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


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