佐野城(別名:春日岡城)概要: 佐野城は別名「春日岡城」と呼ばれ慶長12年(1607)に佐野信吉が築いた城です。佐野氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の藤姓足利氏庶流で平安時代末期から江戸時代初期にかけて下野国安蘇郡佐野庄を支配した土豪で、元々は背後に聳える山の山頂に築かれた唐沢山城を本城としてきました。
佐野信吉は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に与して行動した為に本領を安堵されたものの、唐沢山城は関東七名城の一つとして数えられ上杉謙信でも落とす事が出来なかった堅固な城で江戸を俯瞰することが出来る事から幕府から廃城を命じられます(諸説有り)。そこで古くは延暦元年(782)、藤原藤成が春日明神の分霊を勧請した春日岡(標高:56m)を城地として定め、連郭式の平山城として改めて佐野城が築城されました。
当時丘一帯が惣宗寺の境内だった為、惣宗寺を現在地に移転させています。佐野城は東西約370m、南北約500m(主郭部は東西110m、南北390m)あり丘の頂部には本丸を設け二の丸、三の丸、北出丸と直線的に配され、それぞれの郭は内掘りによって囲い、さらに外側に外掘がありました。しかし、当時の城主佐野信吉は慶長19年(1614)に突然改易となり松本藩(長野県松本市)へ配流され(諸説ありますが実兄である宇和島藩主富田信高が改易に連座説、大久保長安事件に連座など。後に旗本として再興しました。)、佐野城は廃城となりました。
現在は外堀はほとんど埋め立てられましたが、郭の形状や内堀、土塁などの遺構が残り、本丸には長さ6.4m、高さ1.4m、細長い角礫を利用した石垣、幅20cm、深さ20cm、東西2.6m、南北5.6mの石畳、井戸なども発見されています(何れも保存の為に埋め戻し)。佐野城一帯は歴史的に貴重な事から佐野市指定史跡に指定され、現在は城山公園として整備されています。
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