【 概 要 】−佐野信吉は永禄9年(1566)、富田一白と黒田久綱の娘との子供として生まれました。天正18年(1590)に発生した小田原の役で惣領だった佐野氏忠が北条方に与した事で改易となり、一方、豊臣秀吉に従った佐竹氏に好を通じていた佐野房綱は豊臣方として各地に従軍し、氏忠の残兵が守る唐沢山城が落城すると接収しています。房綱は佐野家惣領の名代となり、天正20年(1592)に豊臣家の家臣富田一白の子供である信吉を養嗣子として迎えた事で、信吉が佐野家惣領の名跡を継いでいます。
信吉は豊臣系大名だったのにも関わらず慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは豊臣家を見限り、徳川方として行動した事で所領3万9千石が安堵され佐野藩を立藩しています(基本的には西軍の主力上杉家の南下に備えて居城である唐沢山城に待機に留まり、加増は認められていません)。ただし、唐沢山城は名将と誉れ高い上杉謙信も攻めあぐねた難攻不落の名城として知られ、信吉はの父親は秀吉の側近で奉行衆の1人だった事から当初から危険視されていたようで、慶長7年(1602)には幕府の命により唐沢山城は廃城となり、麓に小規模な佐野城を築城せざるを得なくなりました。
信吉は城地にあった佐野家の祖である藤原秀郷が開基となった惣宗寺を現在地に境内を遷し、赤坂鹿島神社を天明郷三海に遷座、足利家綱が創建した朝日森天満宮を鎮守社として現在地に遷座、佐野家の縁のある大雲寺や浄泉寺、妙音寺、星宮神社などが城下の一角に遷されています。慶長19年(1614)、江戸城の城下で大火災があった際、逸早く駆け付けて消火活動を行ったところ、幕府の許可を得ていなかった事から咎められ同年には突如として改易となっています。
表向きは実兄で宇和島藩(愛媛県宇和島市)の藩主ある富田信高が津和野藩(島根県津和野町)の藩主である坂崎直盛の家臣を殺した宇喜多左門を匿っていたのを幕府に訴えられ改易となり、それに連坐されたとなっています。信吉は城下にある金蔵院に軟禁となり、処分が決まると松本藩(長野県松本市)の小笠原秀政に預けられています。元和8年(1662)死去、享年56歳、戒名:正雲院殿功山源忠大居士。
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