【 概 要 】−芳賀家は天武天皇の皇子、舎人親王の後裔とされる清原氏の子孫、清原高重が排斥され下野国芳賀郡大内荘に流され地名に因み芳賀氏と称したのが始まりとされます。古くから宇都宮家に従い、文治5年(1189)の奥州合戦の際、当時の当主高親は主家である宇都宮朝綱の有力武将として従軍し信任を得ています。その後は宇都宮家から養子や正室を迎えるなど一族として優遇され、主家が幼少時には宇都宮家を主導する立場にもありました。又、宇都宮宗家が断絶すると、芳賀成高が宇都宮持綱の娘を娶っていた事もあり2人長子である正綱が宇都宮宗家を継ぎ、益々芳賀家が重要視されるようになりました。
芳賀家が強大になると宇都宮家との対立を招き芳賀高勝と宇都宮成綱は家中を2分する争いになり、さらに古河公方の家督争い(永正の乱)が複雑化させ高勝と足利政氏、成綱と足利高基とがそれぞれ与し争乱となります(宇都宮錯乱)。結果的に永正9年(1512)高勝は忙殺され一時的に宇都宮家が領内を掌握しましたが、永正13年(1516)に成綱が病死すると、高勝の跡を継いだ弟の高経が画策、主家忠綱を追放し興綱(成綱の3男)を迎え再び大きな影響力を持ちます。
しかし、その興綱とも不仲となり天文5年(1536)に忙殺、すると興綱の子供である尚綱が高経によって殺害され、この事により宇都宮家の重臣益子勝宗の3男、高定に芳賀家の名跡を継がせています。芳賀家宗家の血筋である芳賀高照(高経の子供)は天文18年(1549)、那須家を頼り尚綱を討ち取るなど活躍しますが、逆に弘治元年(1555)、高定に破れ自害しています。高定は宇都宮家の重臣として活躍し内乱で疲弊した宇都宮家を建て直し小田原北条氏や佐竹氏、江戸氏などにも支持を取り付け一応の回復を遂げました。
その後、高定は芳賀家宗家の血筋である高継に継承させましたが、その後は宇都宮広綱の子供である高武が名跡を継ぎ、天正18年(1590)の小田原の役で参陣した事で6万石が安堵されています。慶長2年(1597)、宇都宮家の内紛により宇都宮家、芳賀家共に改易となり大名家としては事実上没落しています。海潮寺(真岡市)は芳賀家の菩提寺として寺運も隆盛しましたが、芳賀家が没落すると衰微しました。江戸時代に入ると海潮寺は幕府や真岡藩主稲葉家が庇護し、真岡藩が廃藩になると当地域の代官となった竹垣家などが庇護しました。海潮寺の境内には御霊屋や竹垣君徳政碑が残され真岡市指定有形文化財に指定されています。
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