稲葉正成:概要

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概要・歴史・観光・見所
稲葉正成(般若寺)

【 概 要 】−稲葉正成は林政秀の次男として生まれ稲葉重通の娘婿として稲葉家に入り稲葉姓に改称しています。当初は豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉の命で秀吉の義理の甥で養子になっていた秀秋が改めて小早川家の養子に入った際、その家老職を任ぜられています。正成は正室に先立たれた為、重通は姪である福を養女とし再び正成に嫁がせましたが、その福こそが後に3代将軍徳川家光の乳母として大奥の権力者となり幕政にも影響力を与えた人物となりました。正成は秀秋の家老として天正13年(1585)の四国侵攻や天正18年(1590)の小田原の役、慶長2年(1597)の慶長の役などに従軍し功を挙げています。

稲葉正成は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは同じく秀秋の家老である平岡頼勝と共に、黒田長政を通して徳川家康に内通し、秀秋の西軍裏切りを画策しています。秀秋は関が原の功で51万石の大大名となりましたが、戦後、罪の意識からか奇行が目立つようになったとされ、それを見かねた正成は慶長6年(1601)、家老職を辞して浪人の身となりました。

稲葉正成はその後、離縁した福が(離縁の理由は諸説ありますが、その後の稲葉家と福の関係から見ると計画的だったと推察されます。)2代将軍徳川秀忠の嫡男、竹千代(後の徳川家光)の乳母になった事から徳川家の家臣として仕えるようになり慶長12年(1607)には美濃国内の1万石が与えられ諸侯に列し、その後は松平忠昌(徳川家康の孫)に仕えています。慶長20年(1615)の大坂夏の陣では忠昌に従軍し功を挙げ、元和4年(1618)には附家老に昇進すると共に糸魚川領2万石が与えられています。

寛永元年(1624)忠昌の福井藩移封の際、稲葉正成は附家老職を辞して再び浪人となりますが寛永4年(1627)真岡藩2万石が与えられ真岡藩主になっています。真岡藩では大前神社に社領八石七斗三升七合を安堵と社殿の改修を行い、長蓮寺を篤く庇護しています。

寛永5年(1628)に死去、享年58歳、戒名「現龍院殿輝宗道範大居士」、葬儀は菩提寺である般若寺(真岡市)で行われましたが、後を継いだ正勝が徳川家光の威光もあり老中に抜擢されると小田原藩に8万5千石で移封となり正成の墓も改葬されたと思われます。般若寺には改めて霊廟が建立され正成の分骨と木像、位牌が安置され明治時代中期まで命日には供養が続けられていたそうでが、現在は火災により霊廟が焼失し位牌と稲葉家縁の品々が伝わっています。

般若寺:写真
稲葉正成と縁がある般若寺 稲葉正成と縁がある般若寺 稲葉正成と縁がある般若寺 稲葉正成と縁がある般若寺
大前神社:写真
稲葉正成と縁がある大前神社参道石畳み沿いにある朱塗りの鳥居と石燈篭 稲葉正成と縁がある大前神社拝殿右斜め前方と天水桶 稲葉正成と縁がある大前神社本殿と幣殿と透塀 稲葉正成と縁がある大前神社境内に設けられた神楽殿
長蓮寺:写真
稲葉正成と縁がある長蓮寺 稲葉正成と縁がある長蓮寺 稲葉正成と縁がある長蓮寺 稲葉正成と縁がある長蓮寺



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