足利長尾家:概要

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概要・歴史・観光・見所
足利長尾家(長林寺)

【 概 要 】−足利長尾家は桓武平氏の一族で坂東八平氏の後裔が相模国鎌倉郡長尾郷を領した事から地名に因み長尾氏を称しました。景人は関東管領、山内上杉家当主上杉房顕に仕え、戦功を重ねた事で下野国足利庄の代官職に任ぜられ当地に赴任し、上杉家と対立関係である古河公方との押さえ役として重要視されました。居城となった勧農城は対古河公方への戦略的拠点となり上杉方の駐屯地として機能し大きな役割を持ちました。

跡を継いだ景長は永正3年(1506)〜永正7年(1510)の永正の乱で上杉憲房に与し大功を挙げた為、家宰となりその子供である憲長も引き続き山内上杉氏の家宰職を担い但馬守にも任ぜられています。足利当長の代になると主家であった上杉憲政は越後に逃れ、逆に憲政の養子となった長尾景虎(上杉謙信)に従い大功を挙げた事で館林城(群馬県館林市)が与えられ景虎の「景」の字を賜り景長と改名しています。

又、永禄12年(1569)に越後上杉氏と小田原北条氏の間で締結された越相同盟にも尽力し、由良氏との関係強化によって北関東の一大勢力となっています。天正6年(1578)、上杉謙信が死去すると跡目争いである「御館の乱」が起こり、下野国から上杉家の影響力が失われ、小田原北条氏が台頭、同盟関係にあった由良国繁と長尾家の当主で弟である長尾顕長は揃って北条家に幽閉され領地の明け渡しを要求します。兄弟の生母である妙印尼は由良、長尾家の両家をまとめ上げ金山城に籠城し徹底抗戦を繰り広げ為、領土の半分と兄弟の命が保障されました。

天正18年(1590)の小田原の役でも再び兄弟は小田原城(神奈川県小田原市)に軟禁となり、代わって妙印尼が一族を率いて北条方の大道寺政繁が守る松井田城(群馬県安中市)に進軍した前田利家の陣に参陣し功を挙げ何とか由良氏の存続は認められたものの、顕長は佐竹義宣に預けられ、足利長尾家は没落します。長林寺(足利市)は文安5年(1448)、長尾景人が大見禅竜禅師を招いて開山した足利長尾家歴代の菩提寺です。長林寺境内には長尾氏歴代墓所があり足利市指定史跡に指定されています。

長林寺:写真
足利長尾家と縁がある長林寺山門から見た参道石畳みの様子 足利長尾家と縁がある長林寺参道石段から境内を見上げた画像 足利長尾家と縁がある長林寺本堂とその前の仏足石と石造狛犬 足利長尾家と縁がある長林寺境内に設けられた足利家の墓域



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