【 概 要 】−水谷正村(水谷蟠龍斎)は大永4年(1524)、水谷治持の嫡男、又は水谷勝吉、又は水谷正吉の子供として生まれ治持の養子になったとされ幼名は玉若丸、元服後は正村、結城政勝の娘・小藤姫を娶った後は「政」の字を賜り政村を名乗りました。水谷家は古くから結城家に従っていた事から引き続き当主である結城高朝と跡を継いだ晴朝に仕えました。幼少の頃から武勇に優れ、初陣では侍大将他48の侍首をあげ勝利の印として敵将の菩提寺から梵鐘を持ち帰ったと伝えられています。
天文11年(1542)に乗国寺で出家して蟠龍斎と号し天文13年(1544)には敵対する宇都宮領との境界付近に久下田城を築くと、宇都宮家の居城である宇都宮城、真岡城に対しました。天文14年(1545)に下野中村城に侵攻し宇都宮家臣で城主である中村玄角を討ち取り中村地域を手中にし、八木岡貞家や武田信隆などの久下田城攻めにも退け、逆に両氏を討ち取っています。これらの働きにより「常勝」と謳われ結城四天王(山川家・多賀谷家・水谷家・岩上家)に数えられるまでになりました。その後も各地に転戦し連戦連勝、何時しか「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい」と草取り唄で歌われたり、徳川家康からは「関東で蟠竜斎に勝る武将なし」と言わしめるほど名将の名をほしいままにしています。
その後も天正元年(1573)の天正13年(1585)の野殿不動坂の戦い、天正7年(1579)の雛子坂の戦いで多賀谷重経を退け、天正13年(1585)の下野国田野城攻略戦では城主羽石時政と一騎打ちとなりこれも討ち取っています。又、外交政策でも優れ、家督は早々と弟である勝俊に譲り、形式的には勝俊を立てた上で機を見て上杉謙信や徳川家康に好を通じ結城家や水谷家を下支えし、さらに敵将の調略にも長け不敗神話を造り上げました。水谷蟠龍斎は慶長3年(1598)、死去、享年76歳、遺骸は荼毘に付され菩提寺である芳全寺(真岡市)の境内に埋葬、墓碑として宝篋印塔(石塔)が建立されました。芳全寺境内に残されている水谷蟠龍斎石塔は真岡市(旧二宮町)指定有形文化財に指定されています。
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