那須与一:概要

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那須与一(玄性寺)

【 概 要 】−那須家は藤原道長の6男長家の後裔である太郎資孝が下野国那須郷を領した事から地名に因み那須氏を称したのが始まりとされます。那須与一宗隆はその太郎資孝の11男(与一とは10男+1男=11男の意味とも)として生まれたとされ源平合戦の際には源義経に従い従軍しています。弓術の達人として知られ文治元年(1185)年2月18日屋島の戦いでは平家方が小船に扇子の的を設けて源氏方を挑発した為、それを受けた義経は与一を指名しました。

与一は馬に跨り海上に6間(約10.8m)程進みましたが、それでも尚、的までは40間(約72m)程あり常人では的に当てるどころか届く事すら容易ではありませんでした。与一は心の中で「南無八幡台菩薩(現在の那須神社)、日光の権現(現在の二荒山神社)、那須の湯泉大明神(現在の那須温泉神社)。願わくはあの扇の真中射させ給え。これを射損ずるならば、弓を折り、自害しなければ申し訳が立ち申さぬ。今一度那須へ帰らせたいと思し召さば、この矢、外させたもうな。」と、唱えると不思議と風が止み、波が収まり、見事的を射る事が出来たとされます。

これは資料的には疑問符が付く軍記物「平家物語」や「源平盛衰記」に記載されている一場面ですが真意はともかく一般庶民は与一の活躍に心躍らせ、その後も「能」や「歌舞伎」などの題材として数多く演じられました。那須与一はこの功により武蔵国太田荘など5箇所(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)の荘園を賜り、10人(そのうち9人が平家に与したとも)の兄を指しのいて那須家2代目に就任したとされます。

那須与一は文治5年(1189)、又は、建久元年(1190)に死去、戒名「即成院殿禅海宗悟大居士」又は「即成院殿月山洞明大居士」。後裔は鎌倉幕府御家人となり、戦国時代に国人領主として一定の勢力を保ちましたが、有力家臣の離反などで衰微し江戸時代には1万石程度の大名として存続しています。

菩提寺の1つとされる玄性寺(大田原市)は天正18年(1590)に那須資景(後の下野那須藩1万4千石の初代藩主)が鉄尊和尚を招き持仏である薬師如来像を本尊を安置し中興開山した寺院で、弘化4年(1847)に玄性寺の前身である功照院時代に与一の亡骸が葬られた即成院(京都府京都市)から分骨した墓碑を境内に移し名実共に那須与一の菩提寺になっています。玄性寺境内に建立されている那須氏墓碑は大田原市指定史跡に指定されています。

玄性寺:写真
那須与一と縁がある玄性寺 那須与一と縁がある玄性寺 那須与一と縁がある玄性寺 那須与一と縁がある玄性寺



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