【 概 要 】−大田原資清は文明18年(1486)に大俵胤清の子供として生まれました。永正11年(1514)、主家である那須家の家督争いに巻き込まれ、支持していた那須資久が対立していた相手である那須資永に殺害されると、資清は資永に報復し自刃に追い込んでいます。これにより、資清は那須家中で大きな地位を得ましたが、永正15年(1518)に大関宗増が才を妬んで事実上の主君である那須資房に讒言し兵を向けられたた事から失脚を余儀なくされました。資清の兄である麟道和尚を頼りに出家すると一介の僧侶として永平寺(福井県永平寺町)に入り身を隠しました。
それから24年後の天文11年(1542)、越前守護職朝倉家の支援を受け北上、専横を極めた大関家に対し不満があった勢力を糾合し宗増の嫡男である大関増次を石井沢の戦いで破り自刃に追い込んでいます。宗増と和睦の際には資清の長男である大関高増を形式上の養子とし大関家の家督を継がせています。さらに、那須家の有力氏族である福原氏に圧力をかけ金剛寿院(栃木県大田原市)を仲介し次男である福原資則に福原家の家督を継がせました。これにより、那須家の有力家臣である那須七騎の内、3家を掌握した事で最大の実力者となりました。
天文14年(1545)に本拠を水口城から大田原城へ遷し、城下町を町割りした際に麟道和尚を招いて大田原家の菩提寺である光真寺を創建し寺領300石を安堵、温泉神社(現在の大田原神社)を大田原城の鎮守社として現在地に遷座し社領100石を安堵しています。
主家である那須政資が天文18年(1549)に喜連川五月女坂の戦いで敗北した後に死去すると長子である高資と資清の外孫である資胤が対立し、敗れた資胤は一時逐電しています。天文20年(1551)に高資が千本資俊に殺害されると資胤が那須家の家督を継いだ為、資清の勢力が益々強まりました。永禄3年(1560)死去、大田原家の家督は3男である大田原綱清が継いでいます。
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