大田原城(別名:龍城・龍体城・前室城)概要: 大田原城は天文14年(1545)に当時の領主大田原資清によって築城されました。大田原氏は那須家に仕え、那須七騎のひとつに数えられる有力家臣でしたが、策謀に長け同じ家臣である大関氏や福原氏に一族から養子に出し、千本氏を謀略をもって滅ぼすなど急速に勢力を拡大させてきました。天正18年(1585)には主家である那須氏が小田原参陣しなかったものの、当時の城主大田原晴清は小田原に馳せ参じ豊臣秀吉に接見したことで領地が安堵され、独立した領主として認められました。慶長5年(1600)、関が原の合戦では東軍につき、対上杉景勝の拠点の1つとして大田原城が修築しています。
慶長7年(1603)に晴清は4500石の加増を受け1万2千400石の大名となり新たに大田原藩を立藩します。大田原家は小録ながら転封がなく寛永4年(1627)には3代将軍徳川家光が城内に備蓄米1千石を貯蔵させるなど奥州の諸大名に対しての拠点として重要視されました。戊辰戦争では早くから新政府側に組した為、奥羽越列藩同盟側から標的にされ大田原城が戦場となり砲撃を受け三の丸などが焼失、火薬庫も爆発しています。明治6年(1873)には廃城となり明治19年(1886)には渡辺国武(大蔵大臣、逓信大臣)の個人所有になりましたが昭和12年(1937)に渡辺千冬(司法大臣)が町に寄贈したのを受け現在は龍城公園として整備され市民の憩いの場となっています。
大田原城・縄張り: 東西210m、南北327m、面積9.1ヘクタール、標高25mの平山城で本丸を中心に二の丸、三の丸が配され、北廓、西廓、馬場などの郭があり蛇尾川を天然の外堀と見立ていました。本丸には本丸御殿(住居間・諸役所)、納戸庫、武庫、小人長屋、台門、裏門があり二の丸には焙煙庫、長屋、冠水門、三の丸には御殿、西郭には馬場、長屋などがありました。内堀の外側には侍屋敷が配され、さらにその外側には奥州街道が通過し交通の要衝でもありました。大田原城は土塁や空堀などの遺構が残され昭和36年(1961)に大田原市指定史跡となっています。
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