福原家:概要

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概要・歴史・観光・見所
福原家(実相院)

【 概 要 】−福原家は那須家の初代となる那須太郎資孝の4男久隆(那須与一の兄)が下野国塩谷郡福原郷を与えられ地名に因み福原氏を称したのが始まりとされます。その後は那須家の一族とし一定の勢力を保持し那須四家(芦野家・千本家・伊王野家・福原家)、那須七騎(那須七党:那須家・芦野家・千本家・伊王野家・福原家・大関家・大田原家)に数えられました。その後も主従の関係を維持し那須家の発展と共に福原家も拡大しましたが、戦国時代に入ると、家臣団の中でも独立した気運が高まり、特に当主である大田原資清は長男高増を大関家、2男資孝を福原家、3男綱清を大田原家を継がせる事に成功し、さらに那須家の有力氏族だった佐久山家(太郎資孝の2男泰隆の家系)や千本家(太郎資孝の10男為隆の家系)を事実上滅ぼすなど那須家を凌ぐ勢力を持ちました。

福原家は天正18年(1590)、小田原の役では主家である那須家の意向とは反して資孝は両兄弟と共に豊臣秀吉に謁見し2千6百石を安堵され那須家からの独立を果しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し小山に参陣し、徳川家康の命で拠点となる大田原城に駐屯、戦後は西軍方として処分された相馬氏や佐竹氏の城の受け取りなどに従軍しその功もあり慶長7年(1602)に4千5百石に加増、以後、後裔は幕府旗本(交代寄合)として明治維新を迎えています(石高は分知などあり最終的に3千5百石)。

福原家は交代寄合だった為、領地である福原に菩提寺を設けました。実相院(大田原市)は元々福原家縁の尼によって開かれた寺院でしたが永禄11年(1568)以降に菩提寺として整備され当初の菩提寺である永興寺から久隆より資郡の遺骨を改葬しました。又、当主が江戸で死去した場合には江戸の菩提寺である曹源寺(東京都台東区松が谷)に葬られましたが、それも実相院境内に改葬しています。実相院境内には福原家累代の墓所が残され大田原市指定史跡に指定されています。

実相院:写真
福原家と縁がある実相院 福原家と縁がある実相院 福原家と縁がある実相院 福原家と縁がある実相院



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