【 概 要 】−慶安4年(1651)、3代将軍徳川家光が死去、享年48歳、戒名「大猷院殿贈正一位大相国公」。遺言により遺骸が一旦東叡寛永寺に移され葬儀が行われ、その後、日光山にある日光東照宮に隣接する輪王寺境内に葬られました。承応元年(1652)から家光の霊廟(御墓)である大猷院廟の造営が開始され、日光東照宮同様に多額の費用と技術が投入され翌年の承応2年(1653)に竣工しています。遺言では「死しても魂は東照大権現(徳川家康)の居られる日光山に参り、仕えまつらんと願うゆえに、遺骸を慈眼堂の傍らに葬ることを望む」や「東照宮を模倣しても超えても成らない」などを残したと伝えられています。
家光は幼少の頃より次期将軍としての英才教育が施され、一般的な生活や諸事は乳母である春日局、様々な教育は酒井忠世、土井利勝、青山忠俊、酒井忠利、酒井忠勝、内藤清次など有能な家臣達から施された為、父親である徳川秀忠や生母であるお江の方とは離れた存在で、逆に両親は弟である忠長を次期将軍職へ画策した事もあり良い印象を持っていなかったと思われます。
逆に家康は家光が病気になると特注の薬を煎じてくれたり、将軍の長子制を確立し家光の次期将軍を確立したりと敬愛以上の感情を持っていました。その為に家光は心の中で「二世権現 二世将軍」と位置付け、死んでも家康の傍にいたい、霊廟は家康(日光東照宮)を超えないでほしいと願い、本来の父親の墓に傍に墓を建てたい、その墓を超えないでほしいとは思いませんでした。秀忠から見ると長子制が確立した以降は家光を立て、忠長とは一定の距離をとった為明確な対立は無く、そもそも家光が親元を離されたのも家康の意向が大きく作用しています。
又、秀忠の政治的手腕は家康すら凌駕し「公家諸法度の制定」、「武家諸法度の制定」、「天皇家と縁戚関係強化(後水尾天皇に娘である和子を輿入れさせる)」、「宗教の統制(紫衣事件では寺社勢力を処断・寺領、社領を安堵する事で力関係を明確化)」、「大名の統制(領地朱印状を発給や松平忠輝、福島正則、本多正純など改易させ、一族、譜代大名、有力外様大名、区別無く処断することで力関係を明確化)」、「外交の統制(キリスト教の原則禁止、外国船の海賊行為禁止、軍事物資の輸出禁止、日本人国外連れ出し禁止)」などを次々と行っています。
葬儀にいたっては家康同様に神霊として日光東照宮の隣地に霊廟を設ける案もありましたが「葬儀、法会とも倹約を旨とし、霊牌のほか新しく作るべからず」との遺言を残すなど為政者としては申し分ない行動をとっています(ただし、遺言は守られず霊廟は壮麗なものが造営され、戦災で焼失するまでは数多くの建物が旧国宝に指定されていました)。
徳川家光はこのような父親に対してどの様な感情を持っていたのかは分かりませんが、秀忠の死後、すぐさま日光東照宮の大造替を行い、自らの死後は東照宮の隣地に大猷院廟を設けて、秀忠の存在をまるで消し去るような行動をとっています。家光の子供である4代将軍家綱と5代将軍綱吉も父親の意を汲んでか秀忠の葬られた増上寺ではなく、家光の葬儀が行われた寛永寺に葬られています。
|