【 概 要 】−戸田忠真は慶安4年(1651)に佐倉藩主戸田忠昌と秋元富朝の娘との子供として生まれました。忠真は戸田家の家督を継ぐ前から幕府の奏者番や寺社奉行などを歴任し1万石の諸侯に列していましたが元禄12年(1699)忠昌の死去に伴い田原戸田家の家督を継ぎ佐倉藩(千葉県佐倉市)7万1千石の藩主に就任しています(弟に3千150石を分知)。5代将軍徳川綱吉とその側近である柳沢吉保とは折り合いが悪かったようで、奏者番と寺社奉行を辞任し元禄14年(1701)には高田藩(新潟県上越市)に移封となっています。
徳川綱吉の死と柳沢吉保の失脚に伴い、戸田忠真は宝永7年(1710)に宇都宮藩(栃木県宇都宮市)6万7千850石で入封、宝永8年(1711)には戸田家の領内菩提寺である英巌寺を創建、代々の位牌が安置されました(英巌寺は戊辰戦争の兵火により焼失しその後再興される事もなく廃寺、跡地には江戸菩提寺だった松源寺から菩提が改葬され墓地が遷されています)。正徳2年(1712)には二荒山神社に太刀(銘:奉納 大明神宝前 野州宇都宮城主従四位下戸田能登守藤原忠真 正徳二壬辰年九月吉日法城寺和泉守橘正次)を奉納しています。正徳4年(1714)には老中に就任し、享保3年(1718)に1万石の加増を受け合計7万7千850石となっています。
享保13年(1728)、8代将軍徳川吉宗が将軍家としては68年ぶりに日光東照宮への参拝が行われ、往復とも宇都宮城が吉宗の宿所として利用されています。忠真は同行を求められていたようですが老体で体調不良の為か?同行出来ず江戸城留守居役を務め、宇都宮城では養嗣子である戸田忠余が代理として接待役として吉宗に謁見しています。享保14年(1729)死去、享年79歳。
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