【 概 要 】−足利義兼は初代足利氏となった義康の子供、源義家の曾孫、源義国の孫に当たり足利家の基礎を築いた人物です(一説には源為朝の子供とも。事実とすると源頼朝とは従兄弟にあたります。為朝と同様、義兼も以上な程高身長だった事から噂されたとされます)。久寿元年(1154)に生まれたとされる為、父親である義康が保元2年(1157)に死去すると僅か3歳程度で家督を継いだ事になり幼少時は叔父にあたる新田義重の管理下にありました。義兼は異母兄弟である義清、義長の2人の兄がいましたが何れも側室の子供であった為、義兼が幼少ながらも嫡男として見られたと思われます。
足利義兼は源頼朝とも親戚関係だった事から治承4年(1180)に頼朝が伊豆で挙兵すると早い段階から従い、さらに、頼朝の正室である北条政子の妹、北条時子を正室に迎えた為、高い信任を得ました。その後も頼朝命に従い、元暦元年(1184)の木曽義高追討や治承4年(1180)から元暦2年(1185)の平家討伐(治承・寿永の乱)、文治5年(1189)の奥州合戦、文治5年(1189)の大河兼任の乱などに従軍し大功を挙げ、源氏一門だった為、比較的所領が加増されませんでしたが、飛躍的に幕府内で地位が向上し影響力が強くなりました。
当時、頼朝は自らの権力集中を図り、異母兄弟の源義経、源範頼、従兄弟の木曽義仲、叔父の源行家など源氏一族を次々と粛清しており、それを恐れた足利義兼は建久6年(1195)に東大寺で出家し幕政からは距離を置き、母親の菩提を弔う為に創建した法界寺(樺崎寺)に入り隠遁生活を勤しんだと伝えられています。建久10年(1199)に死去、享年45歳、戒名「鑁阿寺殿貞山源嘯義稱上人」、遺骸は菩提寺となる法界寺(樺崎寺)に葬られ、その上には寺の鎮守社でもある樺崎八幡宮の本殿(赤御堂)が造営されました。
その後の法界寺(樺崎寺)は足利家の氏寺(菩提寺)として庇護され寺運も隆盛しましたが、戦国時代末期になると足利将軍家と、足利公方家が事実上滅亡すると衰微しました。さらに明治時代初頭に発令された神仏分離令により法界寺(樺崎寺)は廃寺となり鎮守社だった樺崎八幡宮(足利市)だけが残されました。法界寺(樺崎寺)の旧境内一帯は国指定史跡に指定されています。
|