【 概 要 】−奥平忠昌は慶長13年(1608)に宇都宮藩主奥平家昌と法明院(本多忠勝の次女)との子供として生まれました。慶長19年(1614)の大坂の陣の際、家昌は江戸城の本丸留守居役が申し付けられていましたが急死、本来、嫡男である忠昌がこの役を引き継ぐはずですが、余りにも幼少だった為に免除となっています。ただし、忠昌は初代将軍徳川家康の曾孫、2代将軍徳川秀忠の甥、本多忠勝の孫に当たる人物の為、奥平家の家督を継ぎ、宇都宮藩10万石の藩主に就任しています。
しかし、宇都宮の地は日光街道と奥州街道が通る交通の要衝で軍事的にも重要視されていた為、幼少だった忠昌が到底治める事が出来ないと判断され元和5年(1619)に古河藩11万石に移封となり宇都宮藩には本多正純が15万5千石が入封します。
しかし、この交替劇は徳川家康の娘で忠昌の祖母である加納御前(亀姫)が大変気に入らなかったらしく、元和8年(1622)に徳川秀忠が日光東照宮に参拝するにあたり、本多正純が秀忠の宿所として宇都宮城の御殿を造営した行為に不備があるとして幕府に密告しました。
所謂「宇都宮釣り天井事件」により正純は本庄藩5万5千石で移封(固辞した事で改易)となり忠昌が再び宇都宮藩の藩主に就任しています。寛文8年(1668)死去、享年61歳、葬儀は奥平家の菩提寺である興禅寺(葬儀の際に家臣同志が抜刀しあい、この事件の遺恨が浄瑠璃坂の仇討の原因となっています)、戒名:玄光院殿海印道堪大居士。
奥平忠昌は社寺の保護も積極的に行い元和年間(1615〜1624年)に伝海僧正(慈眼大師天海の弟子)が大谷寺を再興する際に援助し(加納御前(亀姫)が仲介したとも)、寛永18年(1641)には宇都宮城の北方守護の要として事代主命と倉稲魂命の分霊を勧請し元々祭られていた誉田別命を合祀して塙田八幡宮を再興し社殿を造営、慶安年間(1648〜1652年)には出羽三山の羽黒山から分霊を勧請して羽黒山神社を再興、社殿の修復や境内の整備、参道の改修、同じく慶安年間(1648〜1652年)には観専寺を再興しています。
慶安2年(1649)には徳川将軍家が日光東照宮に参拝する際に宿所となる御殿を開雲寺に造営、利用しなくなった寛文4年(1664)に贈与、寛文11年(1671)には石燈篭を寄進しています。万治2年(1659)に大地震により那須塩原温泉の元湯温泉が壊滅的な被害を被ると再興に尽力しています(寛永年間には古町温泉で湯治を行っています)。
|