【 概 要 】−佐野源左衛門常世は下野国佐野庄を領する鎌倉幕府御家人でしたが、一族の押領により当主の座を追われ、草臥れた家屋に慎ましく生活していました。建長5年(1253)の冬のある日、大雪となり1人の旅僧が一夜の宿を求め訪ねてきた為、常世は快く僧を迎え入れました。しかし、半士半農の生活を虐げられいた常世には何ももてなす事が出来ず、せめて暖を取ってもらおうと、先祖から伝わり日頃から大切にしていた梅、松、桜、の鉢植を惜しげもなく蒔きにして囲炉裏にくべました。
その後、御家人という身分と落ちぶれた訳など身の上話をした際、たとえ落ちぶれたとしても幕府への忠誠は変らず、いざ鎌倉に命が出れば、古びれた具足、錆びた薙刀、痩せ細った馬しか持ち合わせていなくとも逸早く駆けつける心意気を告げたそうです。
暫くすると、鎌倉に一大事が起き、常世は急いで鎌倉に駆けつけると、旅僧と思われた人物は実は前執権(5代執権)で鎌倉幕府の最高実力者北条時頼その人でした。時頼は常世の話しが本当だったとして痛く感動し旧領である佐野庄三十余郷だけでなく鉢木にちなんで三個の庄(梅田庄、松井田庄、桜井庄)を与えたと伝えられています。この話し謡曲「鉢の木」の一場面で、佐野源左衛門常世どころかモデルになった人物の存在も不明とされますが、民衆には広く浸透しあたかも存在してたかごとく語り継がれています。
特に、栃木県佐野市鉢木町と群馬県高崎市佐野町、新潟県見附市山吉町が物語りの舞台とされ、佐野市鉢木町には佐野源左衛門常世の菩提寺とされる願成寺があり本堂には位牌、境内には墓碑が建立されています。一方高崎市佐野町には常世の宅跡に常世神社が祀られ、見附市山吉町には後裔とされる佐野家が存在し屋敷内には墓碑があったとされます。
又、佐野市、高崎市説では時頼が与えた三つ庄とは加賀国梅田庄(石川県金沢市梅田町)、越中国桜井庄(富山県黒部市中心部:旧下新川郡桜井町)、上野国松井田庄(群馬県安中市:旧碓氷郡松井田町)とし、見附市説では梅田庄(梅田:見附市下鳥町)、桜井庄(桜森:見附市指出町)、松井田庄(松ノ木:見附市新潟町松ノ木町)としています。願成寺境内に建立されている佐野源左衛門常世の墓は佐野市指定文化財に指定されています。
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