【 概 要 】−小山家は藤原秀郷の後裔(秀郷10世孫)とされる大田政光が下野国都賀郡小山庄を領し、地名に因み小山氏を称したのが始まりとされます。政光の後妻として入った寒河尼は、源頼朝の乳母だった人物だった事から小山氏は逸早く頼朝に従い大功を挙げた為、小山家の地位が確立し北関東に一大勢力を築き上げました。嫡男朝政は下野国守護職を命じられ、弟も長沼氏、結城氏の祖となり小山家を支えました。
鎌倉時代末期には倒幕軍に従い鎌倉に侵攻、新政府樹立後には当時の当主秀朝は下野国守護兼国司に任ぜられ、朝郷の代には足利尊氏が率いる北朝方に属しました。この頃になると宇都宮家が台頭し度々小競り合いが行われるようになり康暦2年(1380)には当主義政が宇都宮領に侵攻し宇都宮家当主基綱を討ち取る活躍を見せました。
しかし、幕府からみると私闘と捉えられ、逆に鎌倉公方足利氏満から追討軍が派遣され永徳2年(1382)には義政が自刃に追い込まれ、嫡男若犬丸も抵抗を試みますが敗戦し会津で自刃、小山宗家は断絶します。その後、第2代鎌倉公方足利氏満の命で同族である結城家から泰朝を向かえ小山家の名跡を継がせ一応の再興を得ています。
暫くの間は結城家の家臣的な立場でしたが持政の代になると、独立の気運が高まり「結城合戦」では結城一族を裏切り幕府方に与し大功を挙げ独立を果し、嘉吉元年(1441)には下野国守護職に復権しています。戦国時代に入ると古河公方足利家に従い、対立関係にあった室町幕府や関東管領上杉家と戦い、関東各地に従軍しましたが、その後上杉家に転じると、足利家も戦線を維持出来なくなり文明14年(1482)に和睦を応じています。
成長の代に再び古河公方家に従うようになり、永正9年(1512)には足利政氏を居城である小山祇園城(小山市)に迎えています。古河公方家の衰退と共に小山家も衰微し、さらに公方家が分裂し内乱状態になると小山家も同じく分裂し結城家から養子として入った高朝が掌握し一応の決着をみました。その後は小田原北条氏の台頭や越後上杉謙信の侵攻などによりその都度立場が変わりましたが、謙信が死去すると上杉家が大きく後退し、変わって北条家が関東全域に影響力を及ぼすようになり、天正3年(1575)には小山祇園城は落城し、当主秀綱は佐竹氏を頼り常陸国に逃れました。
天正10年(1582)、祇園城は秀綱に返還されましたがこれによって北条家に従属するようになり天正18年(1590)の小田原の役では北条方として行動し、敗戦後改易となり大名家としての小山家は没落しています。天翁院(小山市)は小山氏歴代の菩提寺で境内には小山氏の墓碑が建立されています。
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