祗園城(小山城)概要: 祗園城の築城に諸説あり藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が築いたとも久安4年(1148)に小山政光(藤原秀郷の後裔とされる大田政光が小山城に入り小山氏に改称)が築いたとも言われます。その際、城の鎮守社として祗園社(現在の須賀神社)を勧請した事から祗園城と呼ばれるようになりました。
14世紀になると古文書の記録にも出てくるようになり康暦2年(1380)の宇都宮氏との戦いでは小山氏の重要な拠点となったようです。この戦いをきっかけに鎌倉公方足利氏満と戦闘状態となり永徳2年(1382)年に祗園城は落城し当時の当主小山義政は自陣、跡を継いだ若犬丸は至徳3年(1386)に一時祗園城を奪取したものの制圧され応永4年(1379)に会津で自陣、又は蝦夷地に逃れたとされ事実上小山氏は没落します。
その後、祗園城に入った結城泰朝は名跡を継いで小山泰朝と名乗る事となり戦国時代まで小山周辺を支配し再び国人領主として一定の影響力を持つまでに勢力を回復しました。小山領は上杉氏、北条氏、武田氏の領地に近接していた事から常に狙われ、小山氏はその度主家を変えていましたが戦国時代末期の天正4年(1576)、北条家の侵攻により祇園城は落城し城主だった小山秀綱は北条家の旗下に下ります。天正18年(1590)ので豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条家は滅亡、小山氏も運命を共にして祗園城(小山城)も廃城となります。城下には歴代小山家の菩提寺となった天翁院や崇敬社だった須賀神社が境内を構えています。
江戸時代に入ると慶長13年(1608)本多正純が3万3千石で祗園城に入城し城郭の整備をして現在に見られるような形になりましたが、元和5年(1619)に正純が宇都宮城に転封になり、廃城になりました。城は丘陵に築かれた平山城で東西約400m、南北約700、思川を天然の外堀に見立て各曲輪は大きな空堀と土塁により隔てられていました。現在でもそれらの遺構が色濃く残り平成3年(1991)に小山市指定史跡に指定されています。現在は城山公園として整備され市民の憩いの場になっています。
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