小山御殿概要: 小山御殿は江戸時代初期、元和2年(1616)に徳川家康が死去し、元和3年(1617)日光東照宮に埋葬(家康の遺言通り行ったとすれば、菩提は久能山東照宮の境内にあり、御霊のみが日光東照宮に遷された事になります。)されると将軍家が日光参拝の際の休憩所、宿泊所として築かれました。小山の地は慶長5年(1600)の関が原の合戦の折、須賀神社の境内で行われた小山評定によって福島正則や山内一豊等、豊臣家恩顧の大名の殆どが徳川家康に与する事が明白となり勝敗を左右した吉地とされていたとされ将軍の宿所として採用されたと推定されています。
徳川家康を祭る日光東照宮が造営されると将軍家の日光参拝は19回に及び、その内10回は三大将軍家光で小山御殿も使用されましたが財政が逼迫してくると次第に回数が減り寛文3年(1633)の4代将軍徳川家綱が行って以来、暫く行われなかった為、天和2年(1682)には老朽化が激しく大風により大破した事を受け古河藩によって取り壊されています。
小山御殿は元和2年(1622)に2代将軍徳川秀忠によって設けられたもので御殿といっても将軍を守る為城郭化され南北100m、東西64mの敷地内外には16ケ所の番所が設置され、周囲には2重の土塁、さらにその外側には水掘りが廻っていました。現在ではその遺構のほとんどが消滅しています。
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