小山市: 須賀神社

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概要・歴史・観光・見所
須賀神社(小山市)概要: 須賀神社は栃木県小山市宮本町一丁目に鎮座している神社です。須賀神社の創建は平安時代の天慶3年(940)藤原秀郷が天慶の乱(平将門の乱)に鎮圧の折、日夜素盞嗚命に戦勝祈願をし念願成就した事から京都の祇園社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。中世は藤原秀郷の後裔で当地の領主である小山氏の崇敬社となり平安時代後期の保元年間(1156〜1159年)祗園城(小山城)築城時に現在地に遷座し小山荘六十六郷の総鎮守として信仰を集めました。小山氏の庇護により社運も隆盛しましたが天正18年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡すると小山氏も所領が没収され一時衰退します。

須賀神社を崇敬した小山氏は藤原秀郷の後裔とされる太田氏が下野国小山荘(現在の栃木県小山市周辺)の領主となり、平安時代末期に太田政光が当地に入り地名に因み「小山」姓を名乗ったのが始まりとされます。政光の後妻で八田宗綱の娘である寒河尼は源頼朝の乳母を勤めた事から鎌倉時代には幕府の有力御家人の地位を確立しています。鎌倉時代末期の当主小山秀朝は新田義貞の討幕運動に従い功を挙げ、建武の新政時には下野国守護職と下野国国司を兼任するなど版図を広げましたが、宇都宮家との対立が私闘と判断され粛清されています。その後、下野守として復権したものの往時には及ばず、関東八屋形に選ばれたものの宇都宮家の台頭により結城家の従う立場となっています。戦国時代に入ると小田原北条氏が台頭し天正3年(1575)に北条家の侵攻により居城である祇園城が落城し大名としての小山家は没落しています。その後、北条家の家臣として祇園城に入りますが天正18年(1590)に豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされると小山の地を離れた為、須賀神社は庇護者を失っています。

慶長5年(1600)、関が原の合戦の折、徳川家康が上杉討伐の為上杉家の本城(鶴ヶ城)のある会津(福島県会津若松市)に進軍しますが上方で石田三成の挙兵の報を聞き急遽須賀神社境内で小山評定が行われました。この小山評定により多くの豊臣家恩顧の大名を徳川方に味方に付ける事に成功した為、大きく上方に展開することが出来、家康は須賀神社に戦勝祈願し石田三成との決戦に臨みました。結果、家康率いる東軍が勝利した為、感謝の意から須賀神社は徳川家の崇敬社となり社領51石(うち15石が朱印地)を寄進し、万治元年(1658)には朱神輿(日光東照宮を手掛けた職人により製作)が奉納されました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社として独立し郷社に列しています。

須賀神社随身門(神社山門)は入母屋、銅板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り、左右には随身像安置。拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺。祭神は素盞嗚命・大己貴命・誉田別命。

須賀神社の文化財
・ 朱神輿-万治元年(1658),高さ225p,重さ1.5t-栃木県指定重要文化財
・ 蓬莱鏡-永喜2年(1527),青銅製,直径23.3p-国指定重要美術品
・ 徳川家康寄進状-江戸時代-小山市指定有形文化財
・ 月宮鑑-小山市指定有形文化財
・ 牛頭天皇額-小山市指定有形文化財
・ 公孫樹-小山市指定天然記念物
・ 須賀神社の鳥居-承応2年,高さ4.1m,柱間3.34m-小山市指定文化財

須賀神社(社殿・神門):写真

須賀神社の境内正面に設けられた大鳥居
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須賀神社参道石畳みから見た随身門と並木 須賀神社随身門から見た境内と賽銭箱 須賀神社境内から見た拝殿正面と提灯 須賀神社本殿と幣殿と透塀


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