高椅神社(小山市)概要: 高椅神社は栃木県小山市高椅に鎮座している神社です。 高椅神社の創建は景行天皇41年(111)に日本武尊が東夷東征で当地まで進軍した際、この地を霊地と悟り、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱を勧請し戦勝祈願を行ったのが始まりと伝えられています。伝承によると日本武尊に従って遠征してきた磐鹿六雁命は老齢の為、許しを得て当地に留まり、その後裔が高橋姓を称する豪族になったとされ天武天皇の12年(684)に高橋朝臣が社殿を造営、高橋氏の祖神とされる磐鹿六雁命(第8代孝元天皇皇子の大彦命の孫)を勧請合祀して社号を高椅神社と改称したそうです。
高椅神社の祭神の1柱である磐鹿六雁命は第8代孝元天皇の皇子である大彦命の孫とされる人物で、比古伊那許志別命(大稲腰命)の子供ともいわれています。奈良時代に成立した日本書紀によると景行天皇53年に天皇の東国巡幸に随行し、天皇が得た白蛤を膾にして献上した事から膳大伴部を賜ったと記されています(古事記では磐鹿六雁命の名前は記載されていないものの、景行天皇の御代に膳之大伴部を定めた事が記されています)。
延暦8年(789)に編纂された高椅家の家記である「高橋氏文」の逸文でも似たような記述があり、奈良時代に成立した「常陸国風土記」にも磐鹿六雁命の代わりに伊賀理命が同様な役目を負った事象が見られます。新撰姓氏録の逸文によると磐鹿六雁命が膳臣(膳之大伴部)を賜った後、天武天皇(第40代天皇・在位:673〜686年)の御代に10世後裔の膳国益が「高椅」姓に改めたと記載されています。高椅神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社である事を鑑みると、7世紀から9世紀に高椅氏一族が当地に移り住み祖神である磐鹿六雁命を祭ったのが当社の原形であると推察されます。日本武尊が実存し、東国平定が実際に行われたとすると、東国への行軍の経路は常陸国の海岸沿いが想定される為、高椅神社の境内とは遠く離れ当社に伝わる伝承とは合致しないと思われます。
高椅神社は延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に記載された式内社1つとして古くから信仰されました。平安時代後期には境内の井戸から大きな鯉が出現する奇跡が起こった事から、その故事を聞いた後一条天皇(第68代天皇・在位:長和5年1016年〜長元9年1036年)が「日本一社禁鯉宮」の勅額を授けました。以来、氏子達は鯉を食さない、鯉を描いた食器を使用しない、五月の節句に鯉幟を上げないという風習を続けています。中世以降は領主結城家の崇敬社となり代々社領の寄進や社殿の造営、改修を行うなど庇護され社運が隆盛し、建久4年(1193)に社殿が大破すると結城朝光により大改修が行われ、天正13年(1585)には結城晴朝が社殿を改築しています。ただし、永享13年(1441)の結城合戦の兵火により社殿が焼失した際、多くの記録、社宝等も失った為、これ以前の詳細は不詳との事。
慶長5年(1600)に結城秀康(徳川家康の次男、結城家の養子)が越前福井藩に移封後も代々高椅神社の例祭には代参を派遣し明治維新まで続けられました。古くから神仏習合し高橋明神と称していました、明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社となり明治5年(1872)に郷社、明治10年(1877)に県社に列しました。祭神:磐鹿六雁命、国常立尊。合祀:木花開耶姫命、経津主神、高おか神、火産靈命、豊受比売神。
現在の高椅神社楼門(随身門)は明和7年(1770)結城城主水野氏が寄進したもので、 三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、下層部左右には随身像安置、入母屋造り、銅板葺き(旧茅葺)で屋根の前後を唐破風にするなど格式の高い形式をもっています。高椅神社楼門は細部に施されている精巧な彫刻や建物全体が極彩色に彩られているなど見所が多く貴重な事から平成7年(1995)に栃木県指定有形文化財に指定されています。本殿は天正13年(1585)に結城晴朝が再建したものを随時改修したもので三間社流造、銅瓦棒葺。拝殿は文久2年(1862)に奉額殿を改修したもので木造平屋建て、入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、桁行6間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り。
例祭(毎年10月9日に近い日曜日)に奉納する「高椅神社神楽」は日本神話をモチーフにした12座から構成されているもので昭和59年(1984)に小山市指定無形民俗文化財に指定されています。又、長元2年(1029)に境内で井戸を掘ると大きな鯉が出てき、その話を朝廷にしたところ「日本一社禁鯉宮」の勅額を賜ったとされます。以来、氏子達は鯉を神の化身として捉え、鯉を食することや5月の鯉のぼりも立てない事などの風習が現在でも残っているそうです。
|