大関高増(美作守)

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大関高増(大雄寺)
【 概 略 】−大関高増(美作守)は大永7年(1527)に大田原資清と金丸河内守の娘との子供として生まれました。天文11年(1542)頃に大関宗増の養嗣子として大関家の家督を継ぎ、大関家の居城である白旗城の城主となっています。当初は主家である那須資胤に従っていましたが、永禄3年(1560)に発生した小田倉の戦いを機に対立するようになり、那須家と対立関係にあった佐竹氏に与するようになります。永禄9年(1566)と永禄10年(1567)には佐竹家と共に資胤と戦いますが敗北、これにより永禄11年(1568)に和睦しています。その後は那須七騎の筆頭として那須家家中で大きな影響力を行使するようになり多くの合戦に従軍し大功を挙げています。

天正4年(1576)に本拠を黒羽城(栃木県大田原市前田)に遷し、天正6年(1578)に形式上隠居しています。大関高増は謀略にも長け天正13年(1585)には千本資俊・資政父子を太平寺(栃木県那須烏山市)に誘い出し暗殺、天正14年(1586)には伊王野資信を攻めて勝利、これにより得た所領の多くは福原家大田原家など子供や一族を配して勢力を拡大しました。天正18年(1590)に発生した小田原の役では、主家である那須家を差し置いて豊臣方に参陣した事から、高増に1万石、長男である大関晴増に3千石が安堵され諸侯に列し黒羽藩が立藩しています。慶長3年(1598)死去、戒名:弘境院栽岩道松。

大関高増(美作守)は社寺の保護も行い、天正4年(1576)に黒羽城に遷った際、先代大関増次を中興開基、在室玄隣大和尚を招いて黒羽山久遠院大雄寺を中興開山しています。天正5年(1577)には那須神社(栃木県大田原市南金丸)の社殿が再建し銅製鰐口などが奉納されています。

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