佐野市: 唐沢山城(別名:根古屋城・栃本城・牛ヶ城)

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概要・歴史・観光・見所
唐沢山城(佐野市)概要: 唐沢山城は天慶5年(942)に藤原秀郷が築城されたのが始まりと伝えられています。秀郷は平将門の乱を平定した功で鎮守府将軍に任ぜられ、関東から奥州にかけて大きな影響力を持ちました。6代後裔は成行は足利に居を移し足利氏を名乗り城は一時利用されなくなり、治承4年(1180)足利成俊(足利3代俊綱の弟)が唐沢山城を修復して居城として佐野氏に改称、以後、佐野氏の居城として随時拡張整備され概ね建保元年(1213)に完成しています。佐野氏は鎌倉幕府の御家人として存続し小領主ながらも影響力を持つようになり、延徳3年(1491)には当時の城主佐野盛綱が周辺領主に備える為城を整備しています。戦国時代に入ると当初上杉家に従っていましたが、その後内紛により主家側と上杉側に就いた分家側と別れ抗争が繰り広げられ、唐沢山城は上杉謙信が差し向けた軍勢が10度に渡り侵攻、その度に撃退した事で難攻不落の名城として名を馳せました。その後は小田原北条家に属しましたが天正18年(1590)の小田原の役では豊臣側に就いた為、豊臣政権下で3万9000石の所領が安堵されました。

慶長5年(1600)に発生した関が原の合戦では東軍である徳川家に与しましたが加増がなく、しかも慶長12年(1607)には本城である唐沢山城を廃城とされ麓の春日岡城(佐野城)に移されました。理由には諸説ありますが、唐沢山城から江戸を俯瞰、見下ろす事が出来る事が不快に思われたとも山城廃止令が発令されたとも云われてますが詳細は不詳(山城廃止令により廃城になったと伝わる山城が存在するものの正式の法令だった確証が無い)。慶長19年(1614)、佐野信吉は不行跡を理由に突然改易、理由は不詳ですが江戸で火事が起きた際、逸早く消化活動に参加する為、幕府から許可を得ず無断で江戸に入った咎とされます。他の譜代大名に先駆けて外様大名の佐野氏が江戸に駆けつけた事は幕府にとって驚愕と共に恐怖でもあり政治的判断が強く作用したと思われます。又、実兄である富田信高が義弟坂崎直盛に連座し改易になった事件に連座したとも云われ、何れにしても松本藩(現在の長野県松本市)へ配流され佐野家は事実上没落しました(佐野家は後に旗本として再興しました)。

唐沢山城の城郭は唐沢山(247m)山頂の本丸を中心に引局、南城が主郭部分として周囲を高い石垣で囲い、大手筋には二ノ丸、三ノ丸を配し、西城、北城などの郭は深い堀切で分断し山全体が城塞化した連郭式山城で関東七名城(川越城・忍城・前橋城(厩橋城)・金山城・唐沢山城・宇都宮城・多気城又は太田城)の一つとして数えられました。現在は栃木県立自然公園として整備され、本丸には佐野氏の祖とさっる藤原秀郷を祭神とする唐沢山神社が鎮座し、至る所に石垣や空掘、土塁などの遺構が残っています。又、眺望も素晴らしく、唐沢山城が廃城となった理由の1つとされる"江戸俯瞰"が現在でも望むことが出来ます。

唐沢山城:写真

唐沢山城
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