桜町陣屋(真岡市二宮町)概要: 桜町陣屋は元禄12年(1699)小田原藩(神奈川県小田原市−藩庁:小田原城)の飛領だった桜町三ヵ村4000石を統治する為に建設され、領主は小田原藩主大久保家の一族宇津氏が代々あたりました。桜町陣屋は四方(東西100m、南北110m)を土塁で囲み、さらにその外側には水堀(3方)があり大手門にたる主要門は虎口になっています。現在の桜町陣屋の建物(木造平屋建て、寄棟、茅葺、桁行18.86m、梁間7.54m、延床面積124.07u)は文政6年(1823)に建てられたもので、石高に比較すると小規模ですが二宮尊徳が就任時には1000石程度と財政的にも逼迫した状況だったと想像できます。
桜町陣屋の内部は向かって左端が土間で板の間を挟んで次之間(10畳)、上段之間(8畳)と続き右端には雪隠と風呂場がありました。次之間と上段之間の前面には畳敷の前室があり玄関は式台付の格式の高いものと、土間へと続く通用口がありました。現在、敷地内には桜町陣屋の主要部(主屋)しか残っていませんが、往時は長屋や木小屋などの施設や報徳田と呼ばれる田圃、その付属舎である板蔵、文庫と呼ばれた書物を保管した蔵もあったとされます。
文政5年(1822)、小田原藩7代藩主大久保忠真の命で桜町陣屋に赴任した二宮尊徳は26年間当地に在籍し疲弊した桜町領を復興、桜町陣屋も随時整備されていきます。後に「報徳仕法」と呼ばれた領内の財政再建にはそれぞれの身分や役職によって質素倹約が求められ、その余剰分をさならる開発に投資し、功績や実績を挙げたものを表彰、讃美といった手法で、これによって新田開発や殖産産業の育成を試みました。明治元年(1868)に桜町陣屋は廃止されましたが現在でも陣屋主屋を始め、堀や土塁などの遺構が良好に残り昭和7年(1932)に国指定史跡に指定されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-真岡市教育委員会
・ 現地案内板-環境省・栃木県
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