・梁田の地の集落的な始まりは判りませんが、地名はアイヌ語で船着き場の意味がある「ヤンタ」が訛ったとも云われる事から、古くから渡良瀬川の交通の要衝だった可能性があります。
慶長年間には信仰の中心となった長福寺が開創され次第に町並みが形成されてきたと思われます。
江戸時代初期に日光東照宮に例幣使が参詣路として利用する日光例幣使街道が開削されると、その経路上に位置し、難所である渡良瀬川が控えている事から重要視されたと思われます。
江戸時代中期になると日光例幣使街道の交通量の増加と物資輸送の重要性から明和3年宿駅に指定され、宿場町として整備されました。
天保14年に記録された日光例幣使街道宿村大概帳によると本陣2軒、問屋場2軒、旅籠32軒、人口は男性185人、女性246人、合計431人だったと記されています。
慶応4年には戊辰戦争の一つである梁田戦争の舞台でもあり、幕府軍900名が梁田宿を宿所として各旅籠に分かれて宿泊し翌朝、出陣の準備をしている最中に新政府軍に急襲され、混乱した幕府軍は僅か数時間で大敗を喫しています。
勝利した新政府軍を構成していた薩摩藩、長州藩、大垣藩の藩兵500名は当日、梁田宿を宿所として利用しています。
戦死者64名の遺体は梁田宿の住民によって渡良瀬川の河原に葬られ墓碑が建立されましたが、渡良瀬川の付け替え工事により明治43年に星宮神社の境内、さらに昭和6年に長福寺の境内に改葬され墓碑が遷されています。
長福寺の境内には「梁田戦争戦士塚」の他、「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」、「弾痕の松」があり貴重な事から名称「梁田戦争関連史跡」として足利市指定史跡に指定されています。
又、飯盛り女が許可されていた事から明治時代以降も栄えていましたが、明治5年に宿駅制度の廃止と近代交通網の整備に伴い次第に衰微し、最後まで営業していた松濤楼と明保野屋、金槌楼、西村屋の4軒は明治32年に発布された遊郭設置規定により現在の足利市福居町に遷されています。
現在は過疎化が進んだ為が、当時の賑わいは失われましたが、静で落ち着いた町並みが続いています。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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