栃木県の街道

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奥州街道概要
奥州街道概要: 奥州街道奥州街道は江戸の千住宿からと青森の三厩繋ぐ街道です。東北諸藩37家が参勤交代で利用する為、五街道に位置づけられ江戸時代の交通網の基幹を呈していました。江戸幕府道中奉行の直轄下では千手宿から白河城下までで、仙台城下までは仙台道、それ以北を松前道と分けて管理されていましたが呼称としては通して奥州街道や奥州道中などと呼ばれていました。宿場町は115を数え江戸時代後期なると奥州街道を利用し景勝地への遊覧などに訪れる民衆が増えました。栃木県では白坂宿から小山宿までで、大田原宿は奥州街道の宿場町と同時に大田原藩の藩庁である大田原城の城下町でもありました。喜連川宿も城下町で藩主足利家は石高が低いものの高家であった事から城主格とされました。宇都宮宿も城下町で戊辰戦争の際は戦場となり大きな被害を受けました。

日光街道概要
日光街道概要: 日光街道日光街道は江戸幕府初代将軍徳川家康の霊廟を久能山から日光東照宮(栃木県日光市)へ移された事で開削された街道です。日光東照宮には将軍家だけでなく諸大名も参拝に訪れたことから幕府でも日光街道を重要視して東海道、中山道、甲州街道、奥州街道と共に五街道の一つとして整備しました。江戸日本橋から日光三内である鉢石宿まで約143kmには21の宿場を設け、寛永2年からは松平正綱が街道の両脇の植樹に着手、慶安元年には松平正綱が現在に見られる杉並木を整備します。

日光例幣使街道概要
日光例幣使街道概要: 日光例幣使街道日光例幣使街道は江戸幕府初代将軍徳川家康の霊廟を久能山から日光東照宮へ移され、そこへ朝廷から幣帛を奉献するための勅使が通る為に開削された街道です。東照宮の例祭である旧暦4月16日にあわせて京都を4月1日に出立し15日間の行程で日光に到着。持参した金の幣束を奉納し返りは日光街道から江戸に出て東海道を通り京都に戻るといった一連の行為を正保3年から慶応3年まで221年間続けられ1回の中止もなく継続されました。

日光西街道概要
日光西街道概要: 日光西街道日光西街道は奥州街道(日光街道)の小山宿の北側に位置する喜沢追分から日光山内までの街道で壬生宿を経由することから"壬生通り"とも呼ばれています。楡木宿で日光例幣使街道と合流し今市宿でさらに日光街道とも合流しています。将軍の日光東照宮参拝の際は正式ルートである日光街道が利用されましたが、日光西街道の方が約2里短かった為、一般利用者はこの街道を利用する方が多かったとされ、将軍も帰参の際は略式となりこのルートで江戸に戻りました。一般的には小山宿から楡木宿の間を日光西街道と呼んでいるようです。

会津中街道概要
会津中街道概要: 会津中街道会津中街道は天和3年に発生した日光大地震により会津西街道が通行止めになり、元禄8年に会津藩3代藩主松平正容によって開削されました。会津西街道は会津藩にとって参勤交代に利用したり江戸への廻米などを運ぶ主要街道の1つであった為、会津中街道それに変わる街道として重要視されました。街道は奥州街道の氏家宿から三斗小屋宿、大峠を経て会津城下へ至る行程で18の宿場が設けられました。

原街道概要
原街道概要: 原街道原方街道は正保2年(1645)に会津藩主保科正之が開削した街道です。会津藩の主要街道である会津西街道(下野街道)は参勤交代などに利用され、奥州街道も他の東北諸藩が参勤交代で込み合う事が多かった為、物資の般出入用の街道の整備が必要となりました。会津城下から白河までは白河街道を利用し白河から氏家宿まで原方街道、そこからは阿久津河岸を経て水路で江戸まで廻米など物資を運搬しました。


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