矢板市(歴史)概要: 矢板市の歴史は古く、日本最古とされる後期旧石器時代の黒曜石の採掘場である高原山黒曜石原産地遺跡群があり、当地から数百キロ離れた場所にも高原山産の石器が発見され当時から交流が活発だったと推定されています。奈良時代に入ると中央の文化が入り神亀元年(724)には行基菩薩により法楽寺が創建され、延暦14年(795)には木幡神社が勧請されています。中世に入ると塩谷氏が支配し、塩谷氏の出生は諸説ありますが一般的には宇都宮業綱の二男朝業が、塩谷を名乗ったことが始まりとされています。朝業は建仁年間に川崎城を築き周辺を統治しますが、13代目の教綱は宇都宮氏乗っ取りを画策し逆に宇都宮城内で謀殺され、塩谷氏は断絶し、敵対していた宇都宮持綱の孫孝綱が塩谷氏を継ぎます。
天正18年(1590)に行われた豊臣秀吉の小田原の役で塩谷氏は不穏な行動をとったとされ改易、時の領主義綱は縁戚だった佐竹氏を頼り常陸に落ち延び、関ヶ原の戦い後は佐竹氏の家老として秋田に随行しています。その後、岡本氏が一時領しますが、江戸時代に入ると矢板市全域が旗本知行所や佐倉藩などの飛地に細分化され明治維新を迎えます。又、矢板市中心地は奥州街道の大田原宿(大田原城下)と今市宿を結ぶ日光北街道の宿場町として栄え多くの物資の集積場となり周辺の経済の中心地となりました。
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