真岡市(歴史)概要: 真岡市の歴史は古く、市内全域に数多くの古墳が散見でき当時から権力者が存在していたと考えられます。又、真岡市にある仏生寺は日光山を開山した勝道上人生誕地とされ、上人は満願寺、薬師寺で修行を積み、二荒山神社、立木観音堂、四本龍寺を建立した後、この地へ戻り仏生寺を開いたと伝えられています。中世に入ると宇都宮氏の家臣だった芳賀氏が領主となり、後年は宇都宮氏と従属関係でありながら6万石を有するなど国人領主化し大きな影響力を持つようになります。
天正5年(1577)には真岡城に居城を移し城下町の整備や海潮寺、長蓮寺、般若寺、大前神社など神社仏閣の勧請や社殿の造営など行い、城下には当時は主要街道だった関街道(茨城県結城から烏山、福島県白河へ通じる。)が通っていたこともあり繁栄しました。しかし、豊臣政権下で主家である宇都宮氏が突然改易(御家騒動説や石高不正説などがある。)、芳賀氏も連座、所領没収となり、山形県にある出羽三山の出羽神社を頼り離散しました。
江戸時代に入ると、慶長6年(1601)に浅野家が2万石で真岡藩を立藩、慶長16年(1611)から堀家1万2千石、寛永4年(1627)から稲葉家2万石で入りました。稲葉正勝の代で4万石に加増され、さらに母が春日局であることから幕閣(老中)へ入り相模小田原藩に8万5千石で加増移封されました。これにより真岡藩は廃藩となり以降は天領として幕府の陣屋(真岡陣屋・東郷陣屋)が構えられました。真岡市中心部は周辺の行政の中心で、又、鬼怒川舟運の河港としても発展、多くの物資の集積場となり特に真岡木綿は主産業として大きく成長しました。
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