・栃木の町は天正19年に皆川広照が栃木城を築き、その城下町として町割りされたのが始まりとされます。
皆川広照は当初小田原北条氏に従いましたが、その後離反し佐竹氏や宇都宮氏等と共に小田原北条氏の北関東進出阻止の戦線を構築しました。
ところが、天正13年に北条氏の侵攻を受け降伏、その後は北条方として行動し天正18年に発生した小田原の役でも北条氏の本城である小田原城の竹浦口の守備を任されています。
しかし、戦局が不利になると、以前から好を通じていた徳川家康を通じて豊臣方に投降し本領が安堵されています。
皆川氏の本城だった皆川城は豊臣方の上杉景勝等から攻められ落城した事もあり、広照は築城中だった栃木城の完成を急ぎ、竣工後に本城を栃木城に遷しています。
広照は城下町に神明宮や満福寺、近龍寺、定願寺等有力社寺を集め、栃木城の天然の外堀として見立た巴波川を舟運の拠点になるように整備し近江商人を誘致する等商工業のは天の基礎を固めています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは東軍として行動し、慶長8年には松平忠輝の御附家老として飯山領4万石加増を受け、合計7万5千石となったものの、忠輝の増長が激しくなると、広照は家老として不適格と判断され改易となり栃木藩は廃藩、栃木城も廃城になった為、城下町としての機能は失われています。
正保3年に臨時の奉幣使として参議持明院基定が日光東照宮に派遣されるようになり、日光例幣使街道が開削されると、当地がその宿駅に指定され宿場町として整備されました。
天保14年に編纂された日光例幣使街道宿村大概帳によると本陣1軒、問屋1軒、旅籠7軒、家屋1千30軒、人口3千9百99人、宿場の規模は8町54間だったと記されています。
日光例幣使街道は諸大名の参勤交代の経路では無かったものの、例幣使をはじめ、日光東照宮の参拝や作事等の用事を司った大名や身分の高い人物が利用する例も多く、本陣職を歴任した長谷川家を休息所や宿泊所としています。
元治元年に水戸天狗党が当地を訪れた際には定願寺を本堂、近龍寺を宿所として利用したものの、幹部の1人田中愿蔵の焼き討ちにより町並みの南半分が焼失する大きな被害を受けています。
又、栃木宿は巴波川舟運の一大拠点として発展し、日光御用の荷物や周辺地域の特産物、木材、米等が集積され日光や江戸に運ばれました。
栃木河岸から本澤河岸を経て部屋河岸及びその対岸の新河岸までは都賀舟、それより下流は高瀬舟を利用しています。
巴波川の栃木河岸の両岸には豪商や問屋の土蔵が建ち並び、小江戸の異名がある程に繁栄しました。
明治維新後に栃木県が発足すると県庁が当地に設けられ明治17年に宇都宮市に遷るまで県都として発展しました。
現在でも街道沿いや巴波川沿いには数多くの伝統的な町屋建築や店蔵、土蔵等が残されており、蔵の街とも呼ばれています。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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