・板橋郷は中世、日光山に境内を構えている遊城坊の寺領で、領主である宇都宮家の一族出身者が住職を務めていました。
天文年間に宇都宮家と対立関係だった壬生家を支援する為、同盟関係だった小田原北条家が被官である板橋将監親棟を派遣しています。
親棟は遊城坊の勢力を一掃し、板橋城を築城すると、ここを本拠地として版図を広げ、天正4年には鹿沼右衛門を改め、猪倉城を落城させています。
しかし、天正18年に発生した小田原合戦により北条氏が没落すると、親棟も後ろ盾を失い知行をみられなかった事から、板橋城の麓に常安寺を開創し常安入道と名乗って住職になっています。
慶長5年の関ヶ原の戦いの一環で行われた伏見城攻防戦で討死した松平近正の功績により嫡男松平一生が遺領5千5百石に4千5百石が加増され合計1万石で当地に入封し板橋藩を立藩、藩庁となる板橋陣屋が設けられています。
跡を継いだ松平成重は慶長20年に発生した大坂の陣の功績等で元和3年に1万石の加増を受け合計2万石で西尾藩に移封となった為、板橋藩は廃藩、板橋陣屋も廃止されています。
一方、徳川家康の死去に伴い、日光東照宮の整備が進み、その参詣道沿いうに当地が位置していた事から重要視されるようになりました。
正式に日光例幣使街道が開創されると宿駅に指定され、改めて宿場町として整備されました。
天保14年の記録である「壬生通宿村台帳」によると本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠25軒、宿場の規模は3町30間、人口222人、家屋42軒と記されており、隣接する文挟宿とは合宿で合わせて1つの宿駅の職務を担っていました。
宿場の一角に境内を構えている福生寺には同僚と口論の末自刃した日光東照宮造営副奉行だった本多正盛の墓碑が建立されています。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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