・天明宿の町並みは慶長12年に佐野藩主佐野信吉が春日岡城(佐野城)を築いた際、その城下町として町割りされたのが始まりとされます。
ただし、観応2年に発生した薩山合戦の際、足利尊氏に呼応した宇都宮氏綱が駿河国の薩山に向かう途中、「天命宿」に立寄って事から前身となる町が南北朝時代には既に成立していた事が窺えます。
佐野家は延長5年に祖である藤原秀郷が唐沢山城を築いて依頼、代々居城としていましたが、慶長7年に徳川家康の命により突如として春日岡城(佐野城)の築城を命じられています。
理由については諸説あり、唐沢山城からは江戸の町が望め、江戸で火事にあった際には信吉が逸早く駆け付けた為、軍事的に危険視されたとも、江戸が見下ろされている事が不快だったとも、そもそも江戸から20里以内の山城は強制的に廃城する法令があったとも云われています。
何れにしても唐沢山城の廃城が決まった事から信吉は春日岡城(佐野城)の築城と城下町の町割り、領内整備が急務となり、特に産業育成の為に城下の金屋町には数多くの鋳物師が集められています。
しかし、信吉は志半ばで慶長19年に実兄で宇和島藩主だった富田信高が改易になった事に連座し自身も改易となり佐野藩は廃藩となっています。
元和3年に徳川家康の御霊が久能山東照宮から日光東照宮に遷座される際には御霊を乗せた棺が天明宿一角に境内を構えている惣宗寺で宿泊しています。
佐野藩の廃藩にも伴い春日岡城(佐野城)が廃城になった為、城下町の機能は失われたものの、その後、日光例幣使街道が開削されると宿場町に指定されています。
特に例幣使は毎年4月12日に天明宿の小屋町に設けられた本陣の村松家に宿泊するのが通例でした。
天保14年に記録された日光例幣使道宿村大概によると、本陣1軒、旅籠8軒、家屋1095軒、人口4149人、町並みは東西16町48間だったと記されています。
現在は佐野市の中心部となった為、多くの伝統的な町屋建築が建て替えられ昔ながらの町並みは失われつつあります。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
|