・今市宿は元々今村と呼ばれた寒村の一つだったようですが、奈良時代に入り勝道上人が二荒山を開山すると二荒山修験が盛んになると連れ、参詣道に当たる当地を利用する人が増加したと思われます。
天応2年には今市宿の総鎮守である瀧尾神社が勝道上人により琵琶ヶ窪の畔に開創されています。
鎌倉時代初期には北条政子の命により御家人の安達盛長が二荒山に地蔵菩薩の尊像を奉納しようと当地を指し掛かった折、尊像を載せてきた車が動かなくなった事から、尊像の意思と悟り、如来寺を開創し本尊として奉斎したと伝えられています。
元和2年に徳川家康が死去するとその遺言に従い、2代将軍徳川秀忠が家康の御霊を祀る日光東照宮を開創、これに伴い、将軍家及び諸大名、関係者が出来るような参詣道となる日光街道や日光西街道(壬生通り)が開削され、今村は宿駅に指定され宿場町として改めて町割りされています。
地名も、周辺の集落から住民が集められ市が立つようになった事から「今市」に改められたとされます。
今市宿には徳川将軍家が宿泊や休息でりようされる今市御殿が設けられ、徳川秀忠や徳川家光、徳川家綱が利用しています。
さらに、中山道の倉賀野宿とを結ぶ日光例幣使街道、会津城下とを結ぶ会津西街道、大田原城下とを結ぶ日光北街道が開削されると、今市宿はその結束点だった事から交通の要衝として重要視されました。
特に江戸時代初期は会津西街道が会津藩主や村上藩主、新発田藩主の参勤交代の経路として利用された為、その際は藩主や家臣達が今市宿を利用しています。
江戸時代後期の天保14年に編纂された日光道中宿村大概帳によると当時の今市宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒、家屋236軒、人口1122人だったと記されています。
今市宿は大きく上町・中町・下町に分かれ、下町には本陣職を歴任した高橋家が屋敷を構えていました。
戊辰戦争の際には宇都宮戦争に敗北した会津藩兵や旧幕府軍が会津西街道で撤退戦を繰り広げた為、その兵火により大きな被害を受けています。
現在は建て替えや近代化、道路の拡幅工事等で伝統的な町並みはかなり失われています。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
会津西街道:宿場町・再生リスト
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