・富田集落が何時頃成立したのかは不詳ですが中世は中泉庄(西御庄)に属し、観応元年から永徳年間頃に筆されたと推定される小山文書によると「中泉庄加納牧野・榎本・山田・富田」と記されており、室町時代初期には既に存在していた事が窺えます。
松平家が所蔵する古文書によると応永24年に「西御庄内富田郷」と記され、小山満泰が当地を治めていました。
嘉吉元年に佐野氏の一族である左衛門尉成忠が富田城を築くと、地名に因み「富田」姓を掲げ100年余り富田家が当地を支配しました。
戦国時代には本家筋の佐野家と行動を共にした事から、弘治2年に敵対していた皆川俊宗の侵攻を受け、富田城は落城し以後、皆川家の支配下に入っています。
天正18年に発生した小田原の役で、皆川広照は北条方として小田原城の守備を担い、その後豊臣方に投降し本領は安堵されたものの、富田城は富田家一族と思われる富田秀重が復権し、天正19年から慶長2年まで城主を務めています。
慶長18年に北条出羽守氏重が当地に1万石で入封し、富田藩を立藩、富田城の城跡には藩庁となる陣屋を設け、当地は陣屋町として改めて町割りされています。
氏家は江戸城の普請役や日光東照宮の普請役、伏見城の城番、大坂の陣の戦功等が評価され、元和5年に遠江久野藩に移封になった為、富田藩は廃藩、陣屋も廃止となっています。
元和2年に徳川家康が死去すると、その遺言に従い元和3年に家康の御霊が久能山東照宮から日光東照宮に遷座される事となり、その道中で当地を通過した事から、街道筋が整備され富田郷も宿駅的な役割を担ったと推定されています。
正保3年、正式に日光東照宮に例幣使が遣わせる事が定められ、日光例幣使街道が開削されると正保4年に宿駅に指定され宿場町として整備されています。
天保14年に編纂された日光例幣使街道宿村大概によると、富田宿は本陣1軒、旅籠大7軒、中8軒、小13軒、合計28軒、家屋248軒、人口848人、人馬は25人、25疋、町並みは南北12町12間、宿場の入口と出口には木戸が設けられていたそうです。
本陣兼問屋は和久井家が歴任し屋号として「松の屋」を掲げ、建坪102坪、式台付の玄関と表門が備わっていました。
現在の富田宿は、建物の建て替えが進み伝統的な町屋建築は旧旅籠だった泊屋や島田屋等が見られる程度となっています。
一方、旧早乙女醫院や旧大平下病院といった明治から大正時代に建てられた洋風建築が印象的です。
富田宿は飯盛り女が認められていた事から「富田女郎衆」の異名がある程大いに賑わっていたようで、明治から昭和初期まで城郭が設けられていました。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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