・文挟町の集落的な発生時期は判りませんが、鎮守である二荒山神社が鎌倉時代初期に鎌倉幕府初代将軍源頼朝が日光三社に対して周辺の六十六ヵ村を社領として認め、上記の村毎に神塚を築かせた一基を起源とする由緒を伝えている事から、これが事実とすると、鎌倉時代初期には既に文挟村が存在していた事になります。
中世は下野国を本貫とした有力御家人で宇都宮二荒山神社座主、及び日光山別当職を歴任した宇都宮家の支配下に入っています。
一方、日光山の管理下にある有力な僧侶は寺領を守護する小領主のような存在となり、戦国時代には宇都宮氏や当時、日光山惣政所職を担った壬生氏と対しするものも現れました。
そのような中、天文年間には文挟村から程近い小倉村に日光山の僧兵と思われる桜本坊法印昌安が小倉城を築城しています。
昌安は日光山惣政所職の壬生家に従い、壬生家は小田原北条氏の支援を受け領主である宇都宮家と対立する情勢で、天文15年には常陸の佐竹家の支援を受けた宇都宮勢が小倉城を急襲し一時占拠しました。
しかし、当日、日光山方が即座に反撃そ小倉城を奪い返すと、敵方の今泉、戸祭と称する武将を討ち取っています。
元和2年に徳川家康が死去すると、遺言に従い、2代将軍徳川秀忠が日光に家康の御霊を奉斎する社殿(日光東照宮)が計画され、元和3年には、その資材輸送路として日光道中壬生通りが開削、それに伴い文挟村は宿駅に指定され、宿場町として整備されました。
さらに、日光例幣使街道が開削されるとその宿場町にもなり、人や荷物の往来が増加したと思われます。
天保14年に編纂された壬生通宿村台帳によると、本陣1軒、旅籠14軒、家屋32軒、人口156人、比較的規模が小さかった事から隣接する板橋宿には合宿で、伝馬役等の宿駅としての役割は交代で行われています。
文挟村の名主と文挟宿の本陣は田野部善左衛門家が歴任し、屋号として「中屋」を掲げ、当家、又は一族と思われる田辺家が問屋を担っていました。
二荒山神社の境内の一角に設けられた「文挟宿郷倉」は元禄、天明、天保等の大飢饉で多くの餓死者や離村者が続出した事を受けて開設されています。
現在の郷倉は江戸時代末期に建てられた建物で貴重なものとされます。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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