・奈佐原宿は元和3年に徳川家康の霊廟を日光山に造営した際、資材運搬と技術者の往来の便を図る為に開削された日光西街道(壬生通り)の宿駅として整備された宿場町で、正保3年に例幣使が日光東照宮の大祭に派遣される事に伴い日光例幣使街道が開削されると、その宿駅にも指定されています。
奈佐原宿には東問屋と西問屋の2軒の問屋があり、本陣が無かった時期は西問屋が本陣職を兼任していました。
天保14年に編纂された壬生通宿村大概帳によると、本陣1軒、問屋2軒、旅籠22軒、家屋63軒、人口330人、町並みは4町16間だったと記されています。
宿場の規模が小さかった事から、隣の楡木宿とは合宿で、鹿沼宿の上がり荷は楡木宿、壬生宿の下り荷は奈佐原宿が継ぎ立てを担当しています。
奈佐原宿では問屋の権力が突出して強大だった事から、問屋の伝馬業務を助郷の住民に対して強制的に無賃で行わせ、大きな負担となっていました。
時の代官である小出大輔大人は、これを問題視し、強制挑発を止めさせています。
その他にも移住者を奨励して田畑を与えたり、副業を行わせ副収入で生活の糧にさせたり、質素倹約や貯蓄を奨励した事で、奈佐原宿の住民の生活が安定、発展させました。
小出大輔大人が飛騨国の代官に転勤になった際、奈佐原宿の住民はその遺徳を偲び、享和年間に愛宕神社の境内に生祠を建立しています。
奈佐原文楽は、少なくとも江戸時代後期の文化年間には既に行われていたと推定されるもので、日光西街道(壬生通り)や日光例幣使街道を利用した旅芸人が当地で披露した演技を、住民が見様見真似で始めたと考えられます。
明治時代になると、当地に移り住んだ大坂文楽座主吉田国五郎の門弟吉田国造と、隣の楡木に移り住んだ元大坂文楽座で活躍した竹本蔦太郎から本格的な浄瑠璃が伝授されました。
奈佐原文楽は貴重な事から国選択と栃木県指定無形民俗文化財に指定されています。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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